NHKラジオ・まいにちスペイン語「すばらしきラテンアメリカ ¡Américas fantásticas!」9月号(最終月)が開講!!

「すばらしきラテンアメリカ ¡Américas fantásticas!」

本学外国語学部イベロアメリカ言語学科スペイン語専攻の柳沼孝一郎名誉教授とシルビア・ゴンサレス教授が担当するNHKラジオ・まいにちスペイン語(応用編)「すばらしきラテンアメリカ ¡Américas fantásticas!」が再放送されます。
歴史・文化・社会・人々の暮らし、その多様性が織りなす魅力あふれるラテンアメリカの国々を旅しながらスペイン語を学ぶ講座です。

■応用編「すばらしきラテンアメリカ ¡Américas fantásticas!」もいよいよ最終月となりました。
 9月号は、パラグアイからウルグアイそしてアルゼンチンのラプラタ諸国を訪れます。

●第41課「グアラニ族の大地、パラグアイにて」:放送9月2日(木)
グアラニ語 guaraníで「大いなる川の大地」を意味するパラグアイ Paraguayは、国の中央を貫流するパラグアイ川によって「東部パラグアイ」と「西部パラグアイ」(グラン・チャコ Gran Chacoまたはチャコ地方と呼ばれる)に分けられます。1537年にスペイン人のフアン・デ・サラサール(Juan de Salazar)によって、ラプラタ領(現在のアルゼンチン)からアンデス地方に至る通行の要衝としてアスンシオン(Asunción:8月15日の聖母マリア「聖母被昇天」の祝日に都の礎となる要塞が築かれたことに由来)が建設され、1541年の総督府設置を機にスペインの植民地支配下に置かれました。しかし1580年に総督府がブエノスアイレスに移転されてからは繁栄から遠のき、イエズス会宣教師が経営する先住民のカトリック布教活動の拠点「レドゥクシオン」(reducción:先住民教化集落)が建設されるだけの辺境の地となってしまいました。その後、1810年にブエノスアイレスでスペインからの独立運動が勃発したことに呼応して戦いが開始、1811年5月15日に独立が宣言されました。 パラグアイではスペイン語とグアラニ語が国の公用語となっており、先住民の大半を占めるグアラニ語も日常的に用いられています。パラグアイは、ヨーロッパすなわちスペイン文化とグアラニの伝統と文化が融合された独特な世界を形成する魅力あふれる国です。それを象徴するのがパラグアイを代表する音楽グアラニア(guarania)やパラグアイ・ポルカ(polka paraguaya)の演奏に合わせて踊る「ボトル・ダンス」、そしてグアラニ語で「クモの巣」を意味する「ニャンドゥティñandutí」という繊細な織物です。

●第42課「パラナ川を巡る旅」:放送9月3日(金)
アルゼンチンの大草原パンパを流れるパラナ川 (río Paraná) の遥か上流、パラグアイ南部のパラナ川を巡る旅も一興です。流域に位置するエンカルナシィオンの近郊には1993年にユネスコ世界遺産に登録された「ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナ la Misión Jesuítica de la Santísima Trinidad」と「ヘスース・デ・タバランゲJesús de Tavarangué」のイエズス会伝道所の遺跡は是非訪れたいところです。スペイン植民地時代にイエズス会宣教師が運営した、先住民のカトリック布教活動の拠点となった場所ですが、当時は、伝道師と10万人の住民が平和に暮らす30か所を数える共同体が存在したといわれます。「パラグアイのイエズス会国家」とまで呼ばれた布教集落(レドゥクシオン)は1767年、イエズス会士がスペイン領植民地から追放されるまで繁栄しました。あたり一帯は静寂が支配し、風がそよぐ音しか聞こえません。それはまるでパラグアイハープ(arpa paraguaya)が奏でる心地よい音色のようです。

●第43課「ウルグアイの旅、モンテビデオからコロニア・デル・サクラメントへ」:放送9月9日(木)
グアラニ語で「貝の川」または「ウル鳥の飛来する川」を意味するウルグアイ(正式名称:ウルグアイ東方共和国 República Oriental del Uruguay)は、1494年の「トルデシーリャス条約」、ついで1516年にスペイン人のフアン・ディアス・デ・ソリス(Juan Díaz de Solís)の探検によってスペイン領となりました。植民地時代には「バンダ・オリエンタル」(Banda Oriental:「東岸」の意味)と呼ばれましたが、貴金属に乏しいために長らく放置されていました。やがて牧畜に適した肥沃なこの地域をめぐってポルトガルとの間で激しい争奪戦がくり広げられ、こうした中で1726年にモンテビデオ(Montevideo)が建設され、76年にラプラタ副王領(現在のアルゼンチン)の設置に伴いバンダ・オリエンタルはその一部となりました。その後、1810年にブエノスアイレスで独立運動が起こると同時に、バンダ・オリエンタルの実力者(カウディリョ caudillo)のアルティガス(José Gervasio Artigas)はスペインからの独立を図り蜂起しました。そうした中、中央集権派のブエノスアイレスと対立する間にポルトガルの侵略によってブラジル領に編入されましたが、25年にアルゼンチンの支援を得てラバジェハ(Juan Antonio Lavalleja)を中心に再び独立運動が勃発、これに起因して26年にはアルゼンチンとブラジルが戦争に突入し、28年にイギリスの仲介によってバンダ・オリエンタルの独立を承認する講和が調印され、こうしてアルゼンチンとブラジルの間の緩衝国として「ウルグアイ」の名称で独立が達成されました。
アルゼンチンやパラグアイと並んでラプラタ諸国を構成する国ですが、社会福祉制度が発達していることから「南米のスイス」とも呼ばれます。南アメリカ諸国の関税同盟メルコスール(MERCOSUR:Mercado Común del Sur南米南部共同市場)の事務局もあるグローバルシティの首都モンテビデオ(Montevideo)を後にして、コロニア・デル・サクラメント(Colonia del Sacramento)まで足を延ばします。ラプラタ川の岸辺に位置する港町で、強風に耐えるかのように瓦葺の小さな家々が連なり、その中を縫うように続く石畳の「カジェ・デ・ススピロス」(Calle de los Suspiros:ため息通り)を歩けば往時が偲ばれます。

●第44課「港町ブエノスアイレスにて」:放送9月10日(金)
コロニア・デル・サクラメントからフェリーでラプラタ川を渡ります。1516年にスペイン人のフアン・ディアス・デ・ソリス(Juan Díaz de Solís)が探検し、銀(plata)が採れると信じられたことからRío de la Plata(銀の川)と命名された大河です。そういえば、国名Argentinaはラテン語のargentum「銀」に由来し、「銀の国」を意味します。そんなことを想いながら、彼方まで続く航跡を眺めているとやがて前方に南アメリカ屈指の大都会ブエノスアイレスが見えてきます。東京からちょうど地球の裏側(対蹠地:antípoda)に位置し、思えば遠くに来たものだと、胸に迫るものと、高鳴りを覚えます。
大河の流域が「ラプラタ地域」と呼ばれると間もなく、1536年にスペイン人のペドロ・デ・メンドサ(Pedro de Mendoza)は、大西洋を臨むリアチュエロ河岸に、船乗りの守護聖母サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ(Santa María del Buen Aire:良き風の聖母マリア)にちなみSanta María de los Buenos Airesという町を建設、今日のブエノスアイレス(Buenos Aires)の礎が築かれました。その後はペルー副王領の一部に組み込まれ、メキシコやペルーと比べ貴金属が乏しかったこともあって、開発の遅れた地域にとどまっていました。やがて1776年にスペイン国王カルロス3世はペルー副王領から分離させ、イギリスやポルトガルの進出を阻止する目的で「リオ・デ・ラ・プラタ副王領」(Birreinato del Río de la Plata:現アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア(アルト・ペルー)、ブラジルの一部などを含む)が設置され、以来ブエノスアイレスはメキシコのベラクルス(Veracruz)やベネズエラのカラカス(Caracas)同様、スペイン本国と副王領を結ぶ新大陸貿易の重要な中継港として発展をとげていきました。
ブエノスアイレスの歴史とアルゼンチン共和国の歩みは「大統領府 La Casa del Gobierno」から始まります。建物がピンク色に塗られていることから、「カサ・ロサーダ Casa Rosada」の名で親しまれてきた大統領府の前に広がる広場は「五月広場 Plaza de Mayo」です。1808年のナポレオンのイベリア半島侵略を機に、リオ・デ・ラ・プラタ副王領では1810年5月22日に独立運動が開始され、25日に独立を宣言しましたが、この「五月革命」を記念して五月広場と呼ばれるようになりました。その先を行くと、独立記念日の1816年7月9日に由来する「7月9日大通りAvenida 9 de Julio」に出ます。前方には白亜のオベリスク(Obelisco)、そして世界三大劇場の1つ、「コロン劇場 Teatro Colón」があります。哀愁のタンゴが流れるブエノスアイレスは訪れる人々を魅了してやみません。

●第45課「ボカ地区を散策」:放送9月16日(木)
ラプラタ川に沿って並ぶドックを眺めながら、コレクティーボ(colectivo:市内循環バス)に乗って「ボカ地区 La Boca」に向かいます。ラプラタ川の支流リアチュエロ川の河口付近、「ローチャRochaの曲がり角」までくるといかにも場末の港町の雰囲気が漂います。やがて、鮮やかな色で塗られた「コンベンティジョス conventillos」が見えてきます。かつてヨーロッパから、とりわけイタリアから渡ってきた移住者たちが暮らした集合アパートですが、タンゴの発祥の地「ボカ」です。その一角に、ディオス・フィリベルト(Juan de Dios Filiberto)の名曲『カミニート Caminito』が文字通り、幅数メートルの「小さな径」(カミニート)として再現・保存されています。ブエノスアイレスの人のことを「ポルテーニョ porteño」(女性はポルテーニャporteña)と呼びます。港(プエルトpuerto)として栄えてきたブエノスアイレスならではの表現です。ポルテーニョの心情を、ポルテーニョ訛りで、ポルテーニョ独特の語りで、表情豊かに切々と歌いあげるのがアルゼンチン・タンゴだといわれます。ボカ地区を歩いていると、港湾労働者の移民たちが仕事の疲れや人生の憂いを忘れるために、夢と希望を託して渡ってきたものの異境の地に裏切られた絶望感から逃れるために、社会のはきだめで辛うじて生き長らえるわが身を一時でも労うために、はるか彼方の祖国に想いを馳せながら、狂おしいほどに歌い、踊ったに違いない酒場に出くわします。
暮れなずむ頃、南半球の8月の冷たい風に背中をまるめ、言い難い寂寥感と郷愁の念に苛まれた旅人はしずかに酒場の扉を開けるのでした...。

●第46課「われらがパンパ!」:放送9月17日(金)
1816年の独立後、ロサス(Juan Manuel de Rosas)独裁政権が崩壊し、1860年代のミトレ(Bartolomé Mitre)大統領時代に統一国家が誕生、サルミエント(Domingo Faustino Sarmiento)大統領時代に西洋化すなわち近代化政策が推進され、アベジャネーダ(N. Avellaneda)大統領時代に欧米とりわけイギリス資本が鉄道および食肉加工産業に導入、ブエノスアイレス港に直結する鉄道網がパンパ全域に敷設され、不足する労働力を大量のヨーロッパ移住者に求め、「パンパの革命」とも称されるほど農牧業は目覚ましい発展をとげ、アルゼンチンは「ヨーロッパの穀倉」とも呼ばれるほど世界有数の農牧王国に成長しました。こうした欧化主義はアルゼンチンにヨーロッパ文化をもたらし、首都ブエノスアイレスは「南米のパリ」と呼ばれる都市へと変貌をとげたのでした。パンパにある別荘に招いてくれた友人が、壮大な夕暮れの下でアサード(asado:焼き肉)に舌鼓を打ちながら説明してくれた祖国の近代史を想いつつ漆黒の大草原を眺めています。20時30分、サン・マルティン将軍広場からほど近い「レティーロ駅」を定刻通りに発車したアルゼンチン国有鉄道が誇る長距離列車「リベルタドール号El Libertador」は、アンデス山脈の麓に位置する最終駅メンドーサを目指してパンパをひた走ります。窓外には、ホセ・エルナンデス(José Hernández)作のガウチョ文学を代表する叙事詩『エル・ガウチョ・マルティン・フィエロ El Gaucho Martín Fierro』に代表されるパジャドール(payador:吟遊即興詩人)たちが村から町へ、そしてガウチョ(gaucho:牧童)たちが駆け巡ったであろうパンパがはるか地平線の彼方までつづいているはずです。マテ茶(té de mate)で喉の渇きを潤していると、車中の誰かが口ずさむ、“Adiós, Pampa mía...”(さらば、我が愛しきパンパよ)が聞こえてきます...。

●第47課「すばらしきラテンアメリカ!」:放送9月23日(木)
リベルタドール号は夜の帳につつまれたパンパのなかを黙々と走りつづけます。民家だろうか、時折、明かりが見えては走り去る窓外に目をやりながら、メンドーサ産のワインを堪能しつつ、毎年3月に開催されるメンドーサの「ぶどう収穫祭 Fiesta Nacional de la Vendimia」のこと、そして今回のメキシコからアルゼンチンまでの「ラテンアメリカの旅」のことを想います。 イベリア半島のスペインやポルトガルのラテン系の言語文化や宗教などの影響を受けたラテンアメリカという呼称は、ナポレオン3世時代のフランスがメキシコを支配した1860年代に、ラメリーク・ラティーヌ(L’ Amérique latine)と呼んだことに由来します。北アメリカの南に位置するこの地域はまた、イベリア半島のスペインおよびポルトガルの伝統文化を継承していることからイベロアメリカ(Iberoamérica)とも呼ばれますが、アングロアメリカに対比した文化的概念からの名称です。さらに、300年にわたるスペイン植民地支配の時代に、とりわけ言語と移住政策によってスペイン南部の発音が似た「ラテンアメリカ・スペイン語」が広く話されるようになりました。また、グアテマラやボリビアなど全住民インディヘナが多い地域を「インド・アメリカ」と称し、メキシコやペルーなど、ヨーロッパ系白人と先住民インディヘナの混血メスティソ(mestizo)が多い地域を「メスティソ・アメリカ」といいます。植民地時代に労働力として導入されたアフリカ系黒人のアフロ文化を継承する地域を「アフロ・アメリカ」と呼び、アルゼンチンやチリのようにヨーロッパ系白人が大部分を占め、ヨーロッパ文化を引き継ぐ地域を「ユーロ・アメリカ」と称します。融合人種社会ならではの言語と文化の万華鏡です。訪れたマヤやアステカのメソアメリカ(Mesoamérica)そしてインカなどアンデス古代文明の古代遺跡、さらにはスペイン植民地時代を物語る歴史的建造物は南アメリカの歩みを今に伝える「時の記憶」です。
旅人は友人から贈られた、エバ・ペロン(Eva Perón)の自叙伝『わが生涯の根拠』(La razón de mi vida)を開きます。

●第48課「エビータ:ファーストレディの戦い」:放送9月24日(金)
自叙伝の中でエバ(Eva María Duarte)はこう言っています――「この世には貧しい人と裕福な人がいることに気づいたとき、私は悲しみにとらわれましたが、そのことに私は大きな怒りを覚えたのです」。幼いときの辛い経験がのちのエビータ(Evita)を貧しい人々のための闘いに駆り立てたのでした。
内気で、物静な少女は、正式に結婚して生まれた子ではないという理由から誰からも相手にしてもらえず、遊ぶときはいつも独りでした。それでも女優になるという夢を抱きながら、やがて15歳のときに首都に出て、女優として成功するまでブエノスアイレスの片隅でつましい生活を送りました。そして運命の出会いがやってきます。サン・フアン大地震の被災者を支援するためのイベント会場でフアン・ドミンゴ・ペロン(Juan Domingo Perón)大佐と遭遇したのです。そして大佐にこう言います―「もしも民衆の願いがすなわちあなたの願いでしたら、どんな犠牲を払おうとも私は死ぬまであなたのお側を離れないでしょう...」。それは春めいたある夜の出来事でした。
ペロンはやがて労働福祉庁長官、陸軍大臣兼副大統領など、職業軍人また政治家として頭角を現しました。ところが軍内部の反ペロン派によって1945年に解任され亡命を余儀なくされました。ところが、エバの呼びかけに奮い立った民衆は大規模な抗議デモを組織、ペロンは解放されたのです。それを機に二人は結婚、翌46年にペロンが政権の座に就くと、エバは慈善団体「エバ・ペロン財団 Fundación Eva Perón」を創設、精力的に救貧活動を展開し圧倒的な支持を得るようになりました。一方で、財団の資金問題や国政への介入などに対する批判もありましたが、影になり日向になって夫のペロンを支え、常に民衆に寄り添ったエビータは今なお多くの人に親しまれています。
エビータが身を乗り出すようにして民衆に訴える「デスカミサードス!」(descamisados:「シャツを着ていない人々」の意味で、「貧しい労働者階級の人々」を表す)という呼び声が、大統領府カサ・ロサーダのバルコニーから聞こえてきそうです。

A la carta “Américas fantásticas”

■戦後、ブラジル移住を中心に邦人の南米移住が再開されました。パラグアイ移住は1954(昭和29)年のラ・コルメナ移住地やチャベス移住地、フラム移住地、アルト・パラナ移住地そしてイグアス移住地への入植を機に再開されました。特筆すべきは、日本人の大量移住に備えるべく船舶借款と引換えに、「日本パラグアイ移住協定」が1959(同34)年にアスンシオンにおいて調印されたことです。

■邦人のアルゼンチン移住は1954(同29)年に邦人48家族と独身者25人の渡航によって再開されました。在留邦人の職業は戦前から伝統的にクリーニング業と花卉業が圧倒的に多く、ブエノスアイレス市周辺を中心に花卉、蔬菜培農家の「呼寄せ」による雇用移住が促進されました。さらに、アルゼンチン政府が農業開発計画の一環として推進した「計画移住」によって自営移住も進められました。なかでも、フロンディッシュ大統領の訪日を機に1961(同36)年に「日本アルゼンチン移住協定」が調印され「計画移住者」が推し進められたことです。

■戦後の海外移住の振興を鑑み1963(同38)年に「海外移住事業団法」が制定され、その公的実務機関として「海外移住事業団」が発足、在外機構として「中南米代表部」をブラジルのリオ・デ・ジャネイロに設置し、サン・パウロ支部、ベレーン支部、レシーフェ支部、ポルト・アレグレ支部、およびアスンシオン支部(パラグアイ)、ブエノスアイレス支部、サンタ・クルス支部(ボリビア)、サント・ドミンゴ支部(ドミニカ共和国)の8支部が開設されて邦人の中南米移住が推進されました。

■今回の悠久の大地ラテンアメリカを巡る旅「すばらしきラテンアメリカ ¡Américas fantásticas!」を満喫頂けましたでしょうか。あらためて認識されたのは「言葉は世界をつなぐ平和の礎」の精神に他なりません。半年間ありがとうございました。
¡Qué tangan muy buena suerte!

●放送は木曜日と金曜日、7:15~7:30(再放送は同日・午後2:45~3:00、翌週・午前11:45~0:00)同日です。
●インターネットで番組が聴けます。NHKラジオ「らじる★らじる」です。

  • コロニア・デ・サクラメント

    (ウルグアイ)

  • ため息通り Calle de los Suspiros

    (コロニア・デ・サクラメント)

  • ラプラタ川河口地形図

    (コロニア・デ・サクラメントの対岸に位置するブエノスアイレス)

  • 五月広場

    (中央奥の白い建物は旧ブエノスアイレス市議会カビルド)

  • カビルド Cabildo

    (旧ブエノスアイレス市議会)

  • 7月9日大通り Av. 9 de Julio に建つオベリスク

    (ブエノスアイレス)

  • コロン劇場 Teatro Colón

  • フロリダ通り Av. Florida

    (ブエノスアイレス中心街)

  • サン・マルティン広場 Plaza de San Martín

  • 国会議事堂

    (ブエノスアイレス)

  • 夕暮れのドック

    (ブエノスアイレス港)

  • ローチャの曲がり角

    (ラ・ボカ)

  • ボカ地区 La Boca

    (ブエノスアイレス)

  • カミニート Caminito

    (ディオス・フィリベルト)

  • カミニート Caminito 地区

  • アルゼンチンタンゴ

  • レティーロ駅

    (ブエノスアイレス)

  • エル・リベルタドール El Libertador 号

  • エビータの墓碑

  • エバ・ペロン墓碑

    (安らかに眠らんことを EVA PERON, Que en paz descanse Q.E.P. D.)

  • カサ・ロサーダ Casa Rosada

    (ブエノスアイレス)

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