異文化理解の先駆者たち

第5回 クリフォード・クラーク『日本人とアメリカ人、その懸け橋として』

神田外語大学附属の異文化コミュニケーション研究所では平成3(1991)年から平成15(2003)年にかけて、他大学の教員が異文化コミュニケーション論の教授法を学べる研修会「異文研夏期セミナー」を実施してきました。企画立案に当った久米昭元副所長が参考にしたのは、スタンフォード大学が実施していた異文化コミュニケーションのセミナー “Stanford Institute for Intercultural Communication”(SIIS)でした。SIICを創立したクリフォード・クラーク氏は、アメリカの大学で異文化コミュニケーションのワークショップを広めるとともに、ビジネス界でも日米の企業の異文化コンサルタントとして手腕を発揮した人物です。日本人とアメリカ人をつなぐ懸け橋であることに人生を賭けてきたクラーク氏を取材しました。

私の祖父がアメリカから、たったひとりで日本に来たのは1898(明治31)年12月でした。南部バプテスト連盟外国伝道局の宣教師である祖父がなぜ日本を選んだのかは定かではありません。翌年の11月には、婚約をしていた女性も来日し、ふたりは横浜で結婚式を挙げました。祖父母はその後、熊本に移り住んで伝道活動を始め、熊本バプテスト教会を設立したのです。

祖母は、熊本で日本の女性たちが高等教育を受ける機会を極端に制限されていたことに心を痛めていました。当時、高等教育を受けられたのは男性だけでしたからね。祖母は、故郷であるジョージア州に休暇で一時帰国したときに、九州の若い女性のための大学を作るべく、初めての基金を募りました。同志社大学を設立した新島襄のようにね。祖母は地元の熊本に学校を作りたいと考えていましたが、外国伝道局は小倉に西南女学院を設立することを決めました。

私の父は1911(明治44)年に熊本で生まれました。6人兄妹の4番目です。父は12歳のときからアメリカで生活していましたが、1943(昭和18)年に祖父が亡くなると11年に及ぶビジネスキャリアを捨てて、祖父の跡を継いで日本での伝道活動をするためにバプテスト派の神学校に入りました。卒業したのは1945(昭和20)年の8月。戦艦ミズーリで日本の降伏調印式が行われるとすぐに、父は家族とともに日本へと向かう旅に出たのです。

車でアメリカを横断し、ハワイのホノルル行きの船に乗り込んだのは1945年の10月です。私は1940(昭和15)年生まれですから、5歳の誕生日を船上で迎えたことを覚えています。ハワイには3年間いました。終戦直後だったので、日本にはすぐに渡航できなかったのです。両親はカウアイのワイメア地区のバプテスト教会で伝道をしました。ハワイでは、両親の日本語も上達し始めました。幸い、この地区の住民はほとんどが日本人で、雑貨店での標準語は日本語でした。私たちは街で唯一の白人でした。私もここで日本人の友達から文化を超えたコミュニケーションのスキルを学びました。1948(昭和23)年8月、日本への渡航許可がついに下りました。(1/9)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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