異文化理解の先駆者たち

第5回 クリフォード・クラーク『日本人とアメリカ人、その懸け橋として』

日本人の友達との付き合いから育まれた
異文化コミュニケーションのスキル

東京の日本語学校で学んだ後、1951(昭和26)年、私たちは京都での伝道活動を任命されました。自宅は大文字山のふもとです。父は活動を始め、1952(昭和27)年には京都バプテスト教会を設立しました。その後もすぐに、父は南部バプテスト連盟外国伝道局の施設として北白川に日本バプテスト病院を作り、1955(昭和30)年には大津にも教会を設立していきました。

子どもの頃は、自転車で河原町や寺町の商店街へ行っていました。商店街にはレコード店があり、その店の息子たちと友達になりました。私は音楽が大好きで、レコードもたくさん集めていたので自然と会話を交わすようになりました。彼らは私の日本語の先生でしたね。京都での子ども時代、私は日本人とアメリカ人の両方と親しく付き合っていました。

宣教師の子どもは、大学に入学するまでは同じ国に住む場合がほとんどです。一方で、軍人の子どもは親の任務によって、2年から3年で他の国へと移っていきます。私や兄妹は同じ学校に長い間通っていたので、軍人の子どもたちよりは日本人のコミュニティーにも親しんでいましたし、日本人の友達もいました。ですから、通っていた京都アメリカンスクールでは日本語の授業がありませんでしたが、ある程度は日本語を学ぶことができたのです。学校では、必要に応じてアメリカ人と日本人の子どもたちの仲立ちを頼まれるようになりました。たいていは、何か問題が起きたときでしたね。

12歳か13歳のとき、私は自分が日本人とアメリカ人をつなぐ懸け橋となるのだと自然に思うようになりました。それは、私のカルマ(業)であり、宣教師の父に言わせればミッションです。それから、17歳になるまで、私は学校で異文化の仲介役をしてきました。私の異文化コミュニケーションに関するスキルは、高校時代に日本人の友達との付き合いによって育まれたものなのです。

1958(昭和33)年、高校を卒業した私はアメリカへ帰国しました。日本で育ったことや伝道の仕事に従事していた両親の影響もあり、ノースカロライナ州にあるウエイク・フォレスト大学で、比較宗教学と世界の哲学を専攻しました。大学1年生のとき、私は自分の出身地を両親が暮らしていた「日本・東京」と書きました。すると、周りのアメリカ人学生たちは、「東京って中国にあるのか?」と聞いてきたのです。彼らはアジアの地理などまったく知りません。アメリカの外で起きていることには、まったく関心がないのです。それはとても腹立たしいことでしたが、私にしてもアメリカについては無知でした。(2/9)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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