神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第14回 佐野隆治 学校法人佐野学園会長『大学生の本気を引き出す環境づくり』

昭和50年代初頭、外国語の専門学校として国内最大規模の学生数を誇っていた神田外語学院は、大学設立に向かって挑戦を始めました。約10年に及ぶ設立準備の日々には数多くの苦難と運命的な出会いがありました。そして、昭和62(1987)年4月の開学。神田外語大学は、佐野学園の理念を貫きながら、学生のやる気を引き起こす画期的なシステムや施設づくりを続けていきます。大学の設立と運営にかけた想い、そして日本の将来を見据えた英語教育のあり方について佐野隆治会長にお聞きしました。

昭和45(1970)年に神田外語学院の本館を建てて、昭和51(1976)年には3号館を建てました。大勢の学生諸君が来てくれた。学生もたくさんいると、真面目に勉強する子が出てくるじゃないですか。専門学校の2年間じゃおもしろくない。どこかの大学に入ってもっと勉強したいっていう学生が毎年数十人はいたんです。事務長をやっていたからしょっちゅうそんな声を聞いていた。

学院ができた頃は各種学校でしたから、大学に入るなら受験し直さなくちゃならない。昭和51年に専修学校法ができて、専門学校を卒業すれば、法律のうえでは短大を終えたのと同等になるはずだった。でも、どこの大学も編入試験を認めていなかった。何かしなくちゃならない、という気になる。国の決めたことに腹を立ててもしょうがないですよ。じゃあ、自前で大学を創ろうということになったわけです。

親父(初代理事長 佐野公一氏)も、専修学校法ができた頃から念仏のように「大学を創れ、大学を創れ」と言うようになった。そして、ついには、「すぐに土地を探せ」と言い出しました。

でも、なかなかいい土地がなくてね。やっと、昭和53(1978)年になって、千葉の幕張に土地が見つかった。千葉県の企業庁が埋め立てた土地を教育機関にも売り出すっていう話が入ってきたんです。パンフレットを見たら、そりゃ夢の街ができるようなことが描いてある。それじゃ、ひとつその話に乗ろうと思ったんです。ここなら目指す大学が創れると思いましたね。

ただ、僕らが小さい頃、幕張っていうのは、潮干狩りに行くところでした。少しずつ整備されていることは知っていましたから、親父とおふくろ(第2代理事長佐野きく枝氏)と一緒に見に行くことになった。昭和53(1978)年の10月のことです。

現地に行ってみると、アシが生い茂っていて、電車も道路もなんにもなかった。それなのに親父は、「ここに大学を建てる。ここがいい」って言うんですよ。でも、そう言うと「心臓がどきどきする」と胸を押さえて、その場で倒れてしまった。それで近所の病院に行って、1週間ぐらいして東大病院に移って、10月18日に亡くなりました。(1/8)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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