神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第15回 水野五行神田外語学院第6代学院長『真の英語教育を築き、若者を育てる』

昭和40年代から50年代にかけて日本最大の外国語専門学校に成長した神田外語学院。圧倒的な数のネイティブ教員や最新の視聴覚設備を駆使したKIFLメソッドによって、学生数は6500人以上に達しました。外国語としての英語教育が多様化するなかで、学院は日本語環境で最適な英語教育とは何かを探り続けていきました。40年にもわたり神田外語学院の教育に現場で携わってきた水野五行第6代学院長に、ダイナミックに変貌を遂げてきた学院の教育の歩みについてお聞きしました。

僕は、京都と奈良の真ん中、宇治の近くにある浄土宗総本山、知恩院の末寺で生まれました。貧乏寺の末っ子です。6人兄妹で、男では5番目だったから「五行」。子どもの頃は、「いつゆき」と呼ばれ、中学校1年生で得度式を挙げて、坊主名は「ごぎょう」になりました。

貧しい暮らしのなかで、寺の住職をしていた父は、幼い子どもたちに食べ物を与えようと、華奢な体で境内や裏の竹林を開墾しました。それで体を壊し、終戦直後、結核で死にました。ふたりの兄も戦死し、すぐ上の兄たちも寺は継がず、地元を離れて京都の大学で医学を学んでいたから、僕が檀家回りをしなくちゃならなかった。小さな村だから、檀家先には同級生がいるから、からかわれましたね。でも、中学校1年から高校3年生までの6年間、ずっと続けました。

貧乏だったけど、寺だから本だけはたくさんありました。同級生にいじめられて、子どもなりに傷ついて、家に帰ってくるとひたすら本を読みました。そして、文章を書くようになった。何かを訴える唯一の手段だったのでしょうね。

国立大学に入りそこねて、1年間自宅で浪人したのですが、受験勉強せずに、文学ばかり読んでいた。欧米の文学も原書で読むようになった。最初は伊藤整が翻訳して発禁になったロレンスの “Lady Chatterley’s Lover”(『チャタレイ夫人の恋人』)。そしてヘミングウェイです。“Farewell to Arms”(『武器よさらば』)や“For Whom the Bell Tolls”(『誰がために鐘は鳴る』)といった作品でした。

地元に残るのも嫌だったし、理数系も不得意だったので、早稲田大学の文学部に進学しました。東京の私立大学に行くなんて勘当同然で上京してきたから、バイトをして学費と生活費を稼いで、学生寮では同級生と朝まで文学や哲学の論議をしていました。学校にはほとんど行かなかったなぁ。

卒業後は、友人の実家の会社に就職したけど続かなかった。やはり物を書いて生きていきたかったから、仕事には身が入らない。友達と日本国内を放浪して、文章を書いていた時期もあった。色んな友達の家に居候しながらね。(1/15)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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