神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第4回 アントン・グディングス神田外語学院第4代学院長『課題と向き合い、言葉を育む』

週に1回、水曜日の午後だけと聞いて、
神田外語学院の臨時講師を引き受けました。

1945年(昭和20)8月15日、戦争が終わりました。母は私に上智大学の国際部に行くよう薦めてくれました。でもなかなか学校が再開しないから、アメリカ赤十字で働くようになりました。2カ月ぐらいすると、上司から「きみ、日本語しゃべれるんだよね。この間、アメリカの新聞記者が来て、日本語を話せる助手を捜していたんだけど、会ってみるかい?」と聞かれました。私はおもしろそうなので、会ってみることにしました。

新聞記者の名は、ローウェル・トーマス。『ニューヨーク・デイリーニュース』のトップ記者です。彼は戦後の日本の状況を伝える連載記事を書いていました。私は彼の助手になりました。ローウェルはジープを支給されていましたから、私がジープを運転して、宿泊していた新橋の第一ホテルから取材に出かけるのです。あるとき、彼は日本一周の取材の旅に出ると言い出しました。ジープにコンテナを付けて、ガソリンと食料を積み込んで。もちろん私は一緒に行きました。

東京から青森を目指して北上していきました。食料は持ち込みだったから、旅館では喜ばれましたね。宿代はいらないから、少し食料をくれないか、と言われました。タバコなんて1箱あげると、お土産をくれましたよ。青森から日本海側を回り、九州へ。そしてふたたび本州の太平洋側を走り、東京に戻ってきました。2カ月間の旅でしたね。大森と東京、横浜しか知らなかった私にとって、この旅は日本という国を知る貴重な体験でした。

この旅の間、ローウェルは私に記事をタイプさせました。殴り書きだから、字が汚くて読めない。でも、その作業を通じて、私は文章の表現や書き方を学びました。逆にスペリングはよく直しましたね。ローウェルは新聞記者なのに、「スペリングは得意じゃないんだ」と言っていました。

私はセント・ジョセフに通っていた頃、毎晩本を読んでいました。大森の家には図書室があって、父は洋書をたくさん集めていた。父は私に書棚を指差して、「ここから、ここまで読みなさい」と言うんです。嫌でしたね、本当に。でも思い返してみれば、その読書が、文章やスペリングの勉強になっていたのでしょうね。ローウェルは、「君には文章のセンスがある」と言って、私に記事を書かせるようにもなりました。

新聞記者も悪くない、と思いながらも2年ほどで辞めました。実は、母と父が離婚しており、母は妹たちを連れてアメリカに行くことになっていました。アメリカの大学で学ばせるためです。私も母についていくつもりだったのですが、母は「あなたは男の子だし、みんなでアメリカに行ってしまうと、お父さんがひとりになって寂しい想いをするから、日本に残ることも考えてみれば」と言いました。父は「おまえの人生だからお前が決めろ」と言うだけです。私は母の意見には素直に従うほうだったから、日本に残ることを決めました。19歳の私は、英国のパスポートを返却し、日本の国籍を選んだのです。

結局、上智大学には行かず、仕事を続けました。セント・ジョセフの同級生が貿易会社を始めるというので、参加することにしました。同級生たちは日本語が下手だった。私は日本語がしゃべれたから、日本の会社を相手に仕事をするには都合がよかったんです。終戦後の日本は物がない時代でしたから、食料や雑貨、肥料などを輸入しました。少し落ち着いてくると、今度は輸出です。日本には小さな町工場がたくさんあって、質の高い製品を作れるから、どんどん輸出しました。なかでも、ライターとペンナイフはヒット商品になりましたね(※1)

貿易会社の仕事は30代の半ばまで続けました。ただ、一緒に会社を経営していた友人がアメリカに移住すると決めたので、会社は解散することになりました。私は、まとまった額の分配金をもらえたので、葉山に住みながら、好きな釣りでもして遊んで暮らそうと思っていたのです。そんなとき、ある人から電話をもらいました。

電話をくれたのは、貿易取引で知り合った三洋貿易という会社の営業部長さんです。彼は「ニューヨーク支店長になることになった。実は、神田にある英語学校で貿易実務の講義を持っているのだが、代わりにやってくれないか」と連絡してきたのです。それが神田外語学院でした。週に1回、水曜日の午後だけと聞いて、私はその仕事を引き受けました。1965年(昭和40)年ごろだったと記憶しています。(2/9)

  1. 戦後、佐野商店で金物を製造販売していた佐野公一氏もライターを製造していた時期があった。
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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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