神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第1回 佐野隆治会長『学院が誕生するまでの日々』

昭和32(1957)年、東京・神田に「セントラル英会話学校」が設立されました。神田外語学院の前身となるこの語学学校を設立したのは、佐野公一・きく枝の夫妻でした。ふたりは終戦の時に、外国語を話せる若者を育て、外国と争いごとのない平和な社会を実現したいと誓い、それが語学学校建学のきっかけだったと伝えられています。では、開学までの間、どのような歩みがあったのでしょう。ふたりの長男である佐野隆治会長が初めて語った学院が誕生するまでの日々の物語です。

親父(初代理事長・佐野公一氏)は明治38年(1905)の生まれで、静岡県の富士郡稲子村の出身です。(※1)稲子にはずいぶんと佐野という家があるんですよ。みんな屋号で呼び合っていたようですね。親父のところは「新家(にいや)」。おそらく本家じゃないんだろうね。富士川の支流が目の前を流れている。土地も急勾配になっていて、とても険しい場所です。親父は8人兄弟。家業は農家でした。

家を手伝った時期の後、親父は弁護士になりたくて、上京して中央大学の法学部に入った。苦学生だったようです。でも弁護士にはならなかった。詳しい話は聞いてないから分からないけれど、試験に落ちたのかな。卒業後は洋服の外交をしていたようですね。

僕は昭和9(1934)年の7月7日に生まれた。だけどこれは当てにならない。うちは姉が1月1日。僕が7月7日で、妹が2月2日。その下の妹が5月5日。だいたいその辺りで生まれているんだとは思うけど、当時は医者の証明書も必要なかっただろうから。縁起をかついだのかもしれない。おふくろ(第2代理事長・佐野きく枝氏)に聞いたら、「そんなことない」と言ってたけど。

生まれたのは駿河台です。何歳までいたのかなぁ。僕は記憶にないんだけど。4、5歳までかな。それから上野駅近くの上車坂に引っ越してきた 。(※2)小学校はすぐ近くの桜ヶ丘小学校。今の下谷小学校です。

当時は子どもがたくさんいた。台東区役所の回りに結構遊べる場所があるし、上野警察の前の道は人が通らないんですよ。ここで遊びまくった。小学校6年生を頭に、子どもたち十数人が遊び回っていましたよ。(1/6)

  1. 現在の富士宮市。下稲子や上稲子の地名が残り、JR身延線には「稲子」という駅がある。
  2. 現在の上野7丁目。
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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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