神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第1回 佐野隆治会長『学院が誕生するまでの日々』

親父がコーヒーを飲む姿なんて見たこともなかった。
段取りを組んだのは僕だった。

中学校は通りを挟んだ車坂にある西町中学校に行くことになっていたけど、上車坂と西町は仲がよくないから、そんなとこ行けるかいと。クラスの先生も開成中学へ行くよう言っていたから受けたんですけど、口頭試験だけなのに落っこちた。それで、日大三中(日本大学第三中学校)へ行きました。当時は赤坂にありました。おふくろが教員だったから学校には詳しかった。

おふくろは明治39年生まれで、親父の一つ年下でした。福井で教員やっていて、それから東京に出て親父と出会った。東京でも小学校の教員免許を取って、上野から亀有の小学校へ通って、教えていました。

姉、僕、妹たちはみな、中学から私立学校へ行きましたね。姉は音楽が好きで上野女学校へ行き、その後は学習院の高等科に入った。すぐ下の妹も学習院へ行って、一番下の妹は和洋女学院へ行きました。子どもたちをみな私立に行かせられたのは、おふくろが教育に熱心だったのと、親父の商売がそれなりにうまくいっていたからでしょうね。

僕は日吉の慶應高校へ行きました。日大三中の仲間で7、8人ずつ分かれて早稲田と慶應へ飛び出しちゃった。高校時代は楽しかった。附属だから受験勉強もないし。のんびりとした時代だった。東大などの国立大学へ行くのであれば勉強をしなくちゃならなかったのかもしれないけれど、私学なんて行くのは割と楽な時代だったと思いますよ。

昭和25(1950)年、僕が高校生になると親父は佐野商店を喫茶店にすると言い出した。なんでそんなこと言い出したかも分からなかったし、なにしろ、親父がコーヒーを飲む姿なんて見たこともなかった。おまけに親父は何もやらない。段取りを組んだのは僕だった。

夏休みになると浅草の喫茶店で働いていた先輩のところに手伝いに行って、色々と覚えた。バーテンを雇って、段取りをつけて、おふくろも教員を辞めて家に入り、店を切り盛りした。親父は何をやっていたんだろう。昼から出かけて、夜になると家にいる。確かに、喫茶店の主人なんて何もすることはないから。喫茶店の名前は「千代田苑」でした。(4/6)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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