神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第1回 佐野隆治会長『学院が誕生するまでの日々』

おふくろから連絡があった。
「もう一度戻ってきなさい。学校を手伝ってほしい」と。

税金対策の方法を紹介する新聞があって、その営業をしたこともある。商店を1軒1軒回り、経理の方に新聞を購読しませんかとお願いする。ちょうど入梅時期で季節も悪かった。毎日雨が降っていた。ずぶ濡れになりながら、1カ月半か2カ月やったかな。厳しかったねぇ。

次は住宅地のセールス。茨城県の守谷に土地を持っている会社があって、それを分譲販売していた。社長の息子が担当で、あまり年齢も変わらなかった。小生意気な奴で、「お前らにはこの土地は一生買えるかどうか分からないものだ」と言われたのを覚えてますね。経理新聞と住宅地のセールス。この2つがまったく儲らなかった。ただ、苦労したけど、若かったから大して辛くはなかった。

次は建築資材を売る会社に入りました。スクーターで建設現場に行って、注文を取ってくる。ご用聞きです。初めて会社組織に属した。会社というものがどうやって動いているか、色々なことを学びました。同時に、会社員ってものは、いくらがんばっても給料が決まっていることも。

その後、会社の先輩と独立して会社を作った。やはり建設現場にモノを売る仕事。でも、実際に自分たちだけでやってみると簡単じゃない。儲らない。1年ぐらいで会社はつぶれました。

それで次は先物取引をやった。自分で保証金や支度金を用意した。親父やおふくろには頼めないからね。儲りましたよ。26歳から3年間やって2000万ぐらいは残したのかな。でも、取引で経営が傾いてしまったお客さんがいた。リスクを承知でやっているから誰も悪くはないんだけど、この仕事に嫌気がさした。恥のような感覚が生まれた。

ちょうどその頃ですよ。おふくろから連絡があった。「もう一度戻ってきなさい。学校を手伝ってほしい」と。親父が神田で始めていた英会話学校をもっと大きくするって言い出している、って言うんです。先物取引にも嫌気がさしていたから、じゃあ戻るかと。そこからですよ、僕が神田外語に関わり始めたのは。(6/6)

(次号に続く)

佐野隆治(さのりゅうじ)
昭和9(1934)年東京生まれ。慶應義塾大学法学部中退。昭和38(1963)年、神田外語学院の前身であるセントラル米英語学院の経営に参画、以来、神田外語グループの発展において中心的な役割を果たす。昭和63(1988)年に学校法人佐野学園の第3代理事長に就任。平成22(2010)年、理事長を退き、会長に就任する。平成29(2017)年3月永眠。享年82歳。

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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