異文化理解教育の先駆者たち

第10回 宮崎新名城大学准教授『人生を拓くコミュニケーションへの気づき』

昭和62(1987)年4月に開学した神田外語大学は、従来の外国語教育を踏襲するのではなく、学問として異文化コミュニケーションを学ぶという、当時としては画期的なコンセプトを打ち出しました。開学10年後の平成10(1998)年、同大学に入学した人物に名城大学外国語学部の宮崎新准教授がいます。コミュニケーション教育を重視した当時の神田外語大学の様子からアメリカ留学時代の経験、大学でのコミュニケーション教育の重要性についてお聞きしました。

生まれは長野県の佐久市ですが、父の仕事の関係で、引っ越しがすごく多かったですね。小学校は2回転校し、中学高校を長野市で過ごして、大学時代は神田外語大学で学ぶのに千葉に出てきました。その後、アメリカのミシガン州デトロイトに留学するのですが、そこに7年いましたから、今のところミシガンが一番長いですね。どこが地元という意識があまりないのも僕の特徴かもしれません。

神田外語大学に進学したのは、比較的、英語の成績がよかったので、学校推薦がもらえたからです。英語がものすごく好きというわけでもなかったし、外国への憧れもなかった。外国語大学に入ったものの、どこか冷静に見ていた感じはしていましたね。だから、大学でもクラスで盛り上がるメンバーの中心にいたわけではないし、どちらかと言えば内向的で、人付き合いも苦手な方でした。

今、大学の教員としてさまざまな立場の学生の視点を大切にしています。外国語学部に入ってくる学生がみんな元気で物おじせず、ハツラツとしているとは限りません。目立つ学生がいる一方で、そうでない学生もいる。そこには敏感になるようにしています。こういう視点は大学時代の経験によるところが大きいのでしょう。

学生当時(平成10(1998)年4月〜平成14(2002)年3月)の神田外語大学を振り返ってみると、コミュニケーションの科目がたくさんあり、当時としては、ずいぶんと先進的な教育が行われていたと思います。コミュニケーション論、異文化コミュニケーション論、非言語コミュニケーション論など興味深い授業がたくさんありました。

ディベートやプレゼンテーションの授業もあったのですが、覚えているのは、まず日本語でディベートやプレゼンを行い、基準をクリアすると英語での表現ができたことです。あくまで母語(日本語)で論理的な思考の構築をすることが基本であるという考えが神田外語大学にはありました。その考えは妥当だと思います。最近の大学生は最初から英語でディベートやプレゼンをしなくてはならない状況にありますから、今思えば当時の神田外語大学で、日本語で考え、表現することを学べたことはとてもありがたいことでしたね。(1/8)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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