異文化理解教育の先駆者たち

第2回 久米昭元立教大学特任教授『かつてない活動を展開し続けた異文研』

昭和59(1984)年5月、佐野学園は異文化コミュニケーション研究所を設立しました。平成12(2000)年まで同研究所の副所長を務めた久米昭元先生は、古田暁所長とともに学外の研究者にも門戸を開きながら、異文化コミュニケーション教育を日本で広めていく活動を展開していきました。久米先生に異文化コミュニケーション研究所での活動の日々とその意義についてお聞きしました。

私は昭和19(1944)年に神戸で生まれ、高校を卒業するまでを大阪で過ごしました。外国と縁のある家庭に育ったわけではありませんでしたが、数学は苦手で、英語の成績がよかったので神戸市外国語大学の英米学科に進学しました。

大学3年生のときに、「日米学生会議」が開かれることになりました。昭和39(1964)年です。日本から77名の大学生が派遣されることになり、私もそのひとりに選ばれました。学生が海外に行くなんて考えもしなかった時代に、2週間にわたり、オレゴン州ポートランドの近くのリードカレッジでの会議に参加しました。会議では、アメリカ人があまりにもよくしゃべるのに驚きましたね。

会議が終わると、私はアメリカに残って旅をすることに決めました。99ドルで全米を回れるグレイハウンドバスを使って、サンフランシスコからシカゴ、ソルトレイクシティー、ニューヨーク、そして南部を巡りました。宿にはできるだけ泊まらないようにして、ほとんど夜行バスで寝ました。今思うと、少しは冒険心があったのかもしれませんね。

昭和41(1966)年4月、大学を卒業した私はドイツ系の製薬会社である日独薬品に就職しました。後の日本シエーリングです。英文でレターを書いて、ドイツ本社とやり取りをしながら、薬を輸入する仕事です。2年ほどすると、ずいぶんと仕事を任され、先輩には「10年後には課長になれるぞ」と言われましたが、「このまま地味な仕事を続けても面白くないなぁ」と思うようになっていました。そんなとき、新聞で「同時通訳研究会」の小さな記事を見つけたのです。

同時通訳研究会は大阪の梅田にありました。室内に入ると、研究生がヘッドフォンを着けて、マイクに向かって話している。何か面白そうでした。そこで週2回、会社帰りに研究会へ通い、同時通訳になる訓練を受け始めました。数カ月すると、化粧品の国際会議で同時通訳を務めることになりました。担当はオープニングの基調講演です。事前に原稿をもらえるから心配ないというので引き受けました。でも、本番では講演の後に質疑応答があって、それは原稿なしの同時通訳。冷や汗ものでしたね。(1/9)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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