異文化理解教育の先駆者たち

第2回 久米昭元立教大学特任教授『かつてない活動を展開し続けた異文研』

“Intercultural Communication”
求めていた学問に出会ったと直感した

当時は昭和39(1964)年の東京オリンピックが終わって、昭和45(1970)年の大阪万博を控えていた時期でした。大阪でもずいぶんと国際会議が開かれるようになり、同時通訳のニーズも増えていました。昭和44(1969)年、同時通訳研究会を主宰していた会社、インター大阪に転職をしました。

世界各国の人々が参加する国際会議では、同時通訳がいることでコミュニケーションが成立します。張りつめた緊迫感のなかで、言葉を置き換えながら、コミュニケーションの橋渡しをする。やりがいはありましたね。会議の前には専門知識を猛烈に勉強します。私はものすごく不器用。だからこそ一生懸命やる。うまくいったときは、本当にうれしかったですね。

国際会議では、日本人がいつも外国人に議論で押されていたのを見てきました。日本人はなぜうまく発言できないのか? 外国人相手にもっと自分の意見を伝えるにはどうしたらよいのか? そんなことを思うようになっていました。一方で、自分自身の力不足も感じていた。やっぱり留学しなくてはと強く思うようになっていたのです。そして、6年間勤めたインター大阪を辞めて、ハワイ大学の大学院に留学しました。昭和49(1974)年のことです。

ハワイ大学への留学はイースト・ウエスト・センターの奨学金によるものです。センターはアメリカ政府がホノルルに設立した機関で、アメリカとアジア太平洋地域の相互理解を目的とした研究活動と留学プログラムを行っていました。ここの奨学金で、数多くの国々の学生がハワイ大学に留学していたのです。生活する宿舎はセンターの寮です。共同のキッチンがあって、留学生たちはそれぞれの国の料理を作り、交流をする。さまざまな文化に触れる貴重な機会でした。

大学院ではアメリカ研究を専攻しました。コミュニケーションにも興味があったので、スピーチ学部を見学してみると准教授に西山和夫先生がいらっしゃった。日米間のビジネスコミュニケーション研究の先駆者です。私は西山先生に、同時通訳時代に抱いた日本人と外国人のコミュニケーションについての問題を投げかけてみました。西山先生は、「それなら “Intercultural Communication” を学ぶといい」と助言してくださいました。異文化コミュニケーションです。私は直感的に自分が求めていた学問に出会ったと思いましたね。 (2/9)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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