神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第15回 水野五行神田外語学院第6代学院長『真の英語教育を築き、若者を育てる』

物を書きたいから休みのある教員を志望
試験での佐野公一先生の評価は辛辣でした

ニューヨークに来て、1年。ビザが切れる時期になって、そろそろ日本に帰ったほうがいいかなと思い始めました。アメリカの北部やカナダを旅して、サンフランシスコから飛行機で日本に帰りました。昭和45(1970)年の6月です。

日本に帰っても相変わらず友達の家に居候をする根無し草の生活です。でも、その頃になると僕も29歳。友達はみんな仕事をして、結婚をして、子どももいる。居づらくてね。そろそろ、仕事をしなくちゃということで、ジャパンタイムズで神田外語学院の求人広告を見つけたんです。10月のことです。当時、他にも英会話学校はありましたが、日本人教員を募集しているのは神田外語学院だけでしたね。

英会話学校の教員を志望した動機は不純でした。物を書いて生きていきたいという気持ちは変わらなかったから、できるだけ自分の時間がとれる職種ということで、夏休みなど長い休暇のある教員を選んだのです。

採用試験は、本館の1階の突き当たりにある現在の学院長室で行われました。当時はあの部屋が教員室だったんです。試験を受けに来ていたのは30人ほど。正面の席には、学院長を務められていた佐野公一先生と当時の幹部が座っていました。部屋の片隅にある机の上には、学院で使っていた教科書や会話のテキスト「キフルーフ」が積まれていました。試験の課題は模擬授業です。テキストを使いながら、1人ずつ英会話を教える授業をやっていくよう指示されました。

公一先生の評価は辛辣でしたよ。ある中年の男性に番が回ってきたときのことです。当時は、ミシガンメソッドが一世を風靡していた時期で、パターンプラクティスが主流だったから、“He is walking.”“He is running.”“He is swimming.”と置き換えていく。彼は、動詞の意味に合わせてジェスチャーを加えていきました。

“He is swimming.”のときに、机の上で腹這いになって、手足をバタバタと動かしました。公一先生は「君は歳をとって、髪だって薄いんだから、そんな真似してもみっともないだけだ。学生には何にも伝わらないよ」と一喝です。女性の応募者のなかには、そんな言葉に腹を立てて帰ってしまう人もいたぐらいです。(3/15)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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