神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第8回 山岸秀豪佐野学園監事『受け継がれゆく創業の精神』

大学を創立する財政的な不安はなかった。
どんな大学にするかが課題だった。

昭和48(1973)年に僕は神戸支社に転勤となりました。この時期はずっと法人を対象とした仕事をしていました。明治生命という後ろ盾があることで、一流会社の社長や会長に会える。とても勉強になった。それに神戸はとてもおしゃれな街ですから。関西でも東京から来た人には合う街なんですよ。

公私ともに充実した日々を送っていた昭和51(1976)年頃、突然、公一先生ときく枝先生が神戸まで訪ねて来られました。そんなこと初めてだったからとても驚きましたね。こちらは仕事で大忙しだったのですが、公一先生には「夜は空けろ」と言われました。仕事をキャンセルして、家族をみんな連れて、神戸に当時あったオリエンタルホテルに食事に行きました。

その旅がおふたりにとって単なる観光だったかは今でも分かりません。大学の創設の計画が固まった時期だと思いますね。僕に何かを強く認識させようとしたのかもしれない。

昭和53(1978)年、千葉県が幕張の埋め立て地の用途について教育関係者を集めて説明を行ったという話を聞きました。その夏、公一先生は幕張の埋め立て地を見に行き、「大学は、ここに決めるんだ」と言って、その場で体調を崩されて倒れた。救急車で運ばれて、10月18日にお亡くなりになられました。

大学を設立する構想は、学院が軌道に乗り始めて間もなくからあったと思います。昭和50年代に神田外語学院に多くの学生たちが入ってくれたことで、大学を設立するための財政的な基盤が整いました。監督官庁である文部省の審査のなかにも、財政基盤に関する項目はありました。自己資金をきちんと持っていなければ、大学を設立する認可は下りない。でも、これは問題がなかった。だから、監事としての私も財政的な心配はしていなかった。

それよりも、どんな大学にするかのほうが課題でした。それは公一先生もずっと真剣に考えていましたよ。そして初代学長は、小川芳男先生という、東京外国語大学の学長経験者であり、NHKの英語教育でも名が通っており、そして人格者でもあった方に決まった。きく枝先生も隆治会長も、当時は非常に苦労されたと思います。小川先生が学長だからこそ、開学当初から優秀な先生方を招くことができ、すばらしい教育体制を作れたのです。(7/11)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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