CULTURE
2021/11/23
飛び交うタイ語。タイ文字の看板。タイ語の案内放送。
オレンジ色の衣をまとったお坊さんの姿。
ここはそう、タイの国・・・ではなくて千葉県成田市にあるタイの寺「ワットパクナム日本別院」です。
2021年11月7日、この寺の境内は参拝者でごった返していました。
行き交うのはほとんどがタイの人たちです。
年間をとおして今日がもっとも人出の多いお祭りの日です(出典①、このお寺の場合です)。
お寺の敷地には所狭しとタイ料理などをふるまう屋台が並んでいます(写真②)。
ぜんぶで約65店舗が出店しているとか(出典①)。
「え?タダですか!?」
なんと屋台の食事はすべて無料でふるまわれていました。
なぜでしょう?
そもそも日本でこんなにタイの人が集まるお祭りって、一体どんなお祭りなんでしょうか?
この日の行事は「カティナ衣(え)奉献祭」(งานทอดกฐิน)といいます。
タイに旅行にいったことがあっても「何それ?」と思う人が多いかも知れません。
でもタイの仏教徒にとっては大切な祭りです。
毎年10~11月ごろ(旧暦10月)、タイの少し大きなお寺なら大体どこでも開催されています。
どんなお祭りなのか、少しのぞいて見てみたいと思います。
「カティナ衣奉献祭」は文字通り「カティナ衣(え)」という特別な衣(ないしその衣をつくる布)を、民衆がお坊さんに差し上げるお祭りです(写真③中央上のオレンジの布が奉献前のカティナ衣)。
昔々、お坊さん(ブッダの弟子)は捨てられた布を拾って衣とするなど質素な生活をしていました。
ですが雨季の修行のあと泥だらけの衣をまとい遠方よりやってきたお坊さんの姿をみて、ブッダは「人びとから衣を寄進してもらっても良いことにしましょう」と許可します。
これがカティナ衣奉献祭の由来だとされています(出典③)。
そのため現在でも、雨季の修行が終わった翌日から1か月間がカティナ衣奉献祭の開催期間です(タイの最終日は灯篭流しの日)。
ただしこの期間のなかから好きな日を1日だけ選んで開催するので、お寺によって祭りの日は異なります。
でもなぜこんなにたくさんの人たちが集まるのでしょう?
■にぎわいの理由?食事が無料のヒミツ?
民衆にとっては、カティナ衣奉献祭でお寺に金品を寄進することは大きな功徳(くどく)になります。
功徳は、お坊さんの修業生活を支えたり、自分自身が仏教徒として正しい生活を送ったり、困っている他人を助けたりすることによって貯まります。
たくさんの功徳が貯まった人は、今生や来世でより良い人生をおくれると考えられています。
タイ仏教徒にとっては、幸せになりたかったら仏に祈るだけではダメで、自分で正しい行動を心がけることが大切ということです。
カティナ衣奉献祭では「今日たくさん功徳を積むぞ」と思って、多くの人がやってくるのだと思います。
タイ料理が無料でふるまわれているのも、おいしく食べて楽しむ参拝者の姿をみて食事の提供者も喜び、またそれによって食事提供者も功徳が積めるからだと考えるそうです(出典①)。
またタイでは、カティナ衣の寄進者として、民衆の代表者(主催者)を1人ないし1団体えらぶことが多いです。
代表になることは功徳をたくさん積めるとともに、名誉なことでもあります。
このワットパクナム日本別院では、誰が代表者になるか17年先の2038年まで既に決まっています。
タイ国にある本寺のパクナム寺院では、なんと約300年先まで予約が入っているとか。
なおカティナ衣は1枚ないし1組だけで、1つのお寺につき1年に1回しか寄進することができません。
代表者になることは少し難しそうですね。
でも大丈夫。代表者ではない一般の参拝者はそれぞれに三衣(さんえ)(お坊さんが普段まとっている衣)や、紙幣をはさんだ「カティナの木」(ต้นกฐิน:写真④)、その他お坊さんの生活用品などをお寺に寄進して、それぞれ功徳を積みます。
またカティナ衣寄進の代表者(主催者)とは別に、このお寺では毎年5万円以上を定期的に寄付する「終身主催者」制度もあります(お寺の張り紙によれば29名の終身主催者がいる)。
こうして毎年の主催者のほか、終身主催者や、一般の参拝者から多くの寄付が集まります。
昨年度の例だと、ワットパクナム日本別院では、カティナ衣奉献祭をとおして600万円以上の収入がありました(出典②)。
タイ料理の無料配布もまた、お祭りを盛り上げ、たくさんの参拝者をひきつけるという点で、お寺への寄付の増加にも貢献しているのだと思います。
■祭りの流れ
では、この年ワットパクナム日本別院で開催されたカティナ衣奉献祭の流れを追ってみたいと思います。
今回は神田外語大学の教員と学生5人で一緒に参加しました。
ほか個別に友人と訪れた学生たちもいました。
朝8:00 お寺の裏手にある広い駐車場は、すでに半分以上うまっています。
境内に入るとすでに座る場所がないくらいの人混みです。
しばらく境内を散策したり、無料配布のガパオライスやもち米を食べたりして楽しみます。
朝8:40 行列が出ます。
カティナ衣を手に抱えた男性を先頭に、布薩堂(ふさつどう)という建物の周りをまわります(写真①、⑤)。
「ホー、ヒゥヒゥヒゥ!」と歓呼の合唱も聞こえてきます。
楽しそうなので私たちも行列に加わってみました。
なお「布薩堂(ふさつどう)」(戒壇(かいだん)ともいいます)というのはタイの寺でいちばん大事な建物です(写真①、⑥)。
出家式などお坊さん同士の大切な儀礼は必ずここで行われます。
カティナ衣の行列は最後、布薩堂のなかへと入っていきます。
朝9:20 お坊さんによるタイ語の説法(法話)が始まりました(写真⑦)。
会場の布薩堂は人でいっぱいです。
30分ほどの説法のあと、参加した人々はお坊さんから五戒(ごかい)を授かります。
敬虔な人は、この日、五戒(酒を飲まない、生き物を殺さないなど)を守ろうと努めます。
つづいて本日のメインイベント、カティナ衣の奉献が行われます。
今年の在家代表者(主催者)はタイのご夫婦とその家族ですが、今日は残念ながら来られなかったそうです。
そのため、駐日タイ大使が代表代理となり、お坊さんにカティナ衣を納めました(写真⑧)。
カティナ衣はお坊さんの代表1名が受けとる決まりです。
私がタイでみたときは、民衆の代表者がお坊さんに1枚の白い布を寄進し、それを裁断、裁縫、染め上げて、カティナ衣(三衣のうち上衣)をつくるという伝統的な方法をとっていました。
ですが現代では市場で売られている既製品の三衣を「カティナ衣」として奉献することも一般的になっています。
ワットパクナム日本別院では既製品の三衣を納めていました。
お坊さんの代表はカティナ衣を受けとると、仏像の裏ですぐそれに着替えます(このお寺の場合)。
お坊さんがカティナ衣をまとって再び姿を現すと、今度は一般の参拝者たちが競って三衣や「カティナの木」などを寄進します(写真⑨)。
寄進の列は布薩堂の外までのびています。
このメイン行事は11:00ごろまでつづきます。
その後、私たちは、無料で配られる食事をもう一度楽しみました。
出店とは別に、お寺の裏手には露天マーケットも出ていて、タイの魚、野菜、果物など珍しい食材・食品を販売していました。
ところで今日のお祭りでは、会場のあちこちで、ワニ、人魚、ムカデ、カメが描かれた旗を見かけました(写真③、⑤、⑩、⑪)。
これは何でしょう?
すでに述べたように、カティナ衣奉献祭は、1つのお寺で1年に1回しか行うことができません。
そのためタイの村落寺院には、祭りのあとに、こうした旗を立てて「うちではもう今年のカティナ衣奉献祭は終わりました」という目印にするところがあるそうです。
こうした伝統にちなんで、祭りの前や当日でも旗が飾られていました。
正午の賑わいをすぎると、参拝者は三々五々帰っていきます。
夕方は残った人たちが、テントや装飾品などの片づけをしていました。
片付けの人出が足りない様子だったので、もう少し手伝えば良かったと後悔しています。
写真⑫は、学生が、祭りの前日に準備をする方たちと一緒に撮った写真です。
考えてみよう♪
タイの仏教は「上座部(じょうざぶ)仏教」といいます。
上座部仏教は、ミャンマー、ラオス、カンボジア、スリランカなどにもあります。
そうした国や地域でもカティナ衣奉献祭は行われていますが、タイとはどう異なるのでしょうか?
例えばミャンマーでは、1晩の間に、どのチームがカティナ衣を一番速く織ることができるかを競うコンテストも開かれています。
国や地域をまたいだ上座部仏教のお祭り比べをしてみるのも面白いかも!?
【出典】
①ワットパクナム日本別院の僧侶より(インタビュー)
② กฐินวัดปากน้ำญี่ปุ่น ๗ พฤศจิกายน ๒๕๖๔[『ワットパクナム日本別院のカティナ衣奉献祭(2021年11月7日)』], p.160.
③คณาจารย์มหาวิทยาลัยมหาจุฬาบงกรณราชวิทยาลัย, 2016, เทศกาลและพิธีกรรมพระพุทธศาสนา = Buddhist Festival and Traditions, อยุธยา:สำนักพิมพ์มหาวิทยาลัยมหาจุฬาลงกรณราชวิทยาลัย(Mahachulalongkornrajavidyalaya University Press).
以下は祭り(前日・当日)を見学した学生たちです。
山田彩乃、武さくら、中村好良鹿、秋山直輝、菱山蓮、クムウォン勢名
準備、インタビュー、写真撮影などでお世話になりました。またワットパクナム日本別院のお坊さんや関係者の方々にはインタビューに答えていただいたり、駅まで送迎していただいたりと大変お世話になりました。
ありがとうございました。
文 和田理寛