CULTURE

ソウル今便り1「韓国の大学前はファッション街」

2022/08/25

文&写真 黒田 勝弘(アジア言語学科韓国語専攻客員教授)

 

筆者はソウルの若者街のひとつ通称「シンチョン(新村)ロータリー」に長く住んでいます。韓国在住40年のうち1970年代の語学留学時代を含め30年以上、そのあたりで暮しています。都心に近く、記者としての仕事上、交通がたいそう便利だからですが、同時に若者の風景など韓国社会の変化を感じることができます。“韓国定点観測”にはもってこいなんですね。

筆者の顔写真

「ロータリー」というのは五差路のことですが、このシンチョン・ロータリ―の周辺には四つの大学がある。シンチョンの代名詞になっている「ヨンデ(延世大)」がロータリーの北側にあり、その東側には「イデ(梨花女子大)」、そしてロータリーの南側に「ソガンデ(西江大)」、ちょっと離れた西方向に「ホンデ(弘益大)」があります。いずれも名門で、このうち「ヨンデ」は韓国の大学ベスト3の一つで日本の早慶クラス。「イデ」は韓国を代表する女子大。「ホンデ」は芸術系で有名です。筆者の自宅に最も近い「ソガンデ」はカトリック系で、日本でいえば上智大といったところでしょうか。

正門の無い「イデ(梨花女子大)」

ちなみに地下鉄の駅でいえば、都心をひと周りする2号線で「シンチョン」をはさんで手前が「イデ」で後が「ホンデ」と続きます。

韓国の大学前は昔から不思議なところがあって、歓楽街だったりファッション街になってきたんですね。「文化は若者から」というわけで、大学前はいろんなお店で実ににぎやかだ。とくに「ヨンデ」前は昔からソウルを代表する歓楽街で、「イデ」は韓国を代表するファッション街でした。今もその名残があって、にぎやかかつ華やかですが、最近はこの二つに代わって「ホンデ」前が人気一番です。歓楽街とファッション街を兼ねた今や大観光スポットとして内外に知られています。

大学前は人出が多いのでイベントも盛んで、何かと騒がしい。筆者が「ソガンデ」前に住んでいるのは、実は4大学のうち唯一、商店街が無くて比較的静かだからです。この「ソガンデ」では以前、頼まれて3年ほど日本事情について講義をしたことがあります。筆者としてはいわば同じ町内会なので、韓国の大学に“社会的貢献”させてもらったようなものでした。

シンチョン・ロータリーは、したがって学生街なのに、一方で歓楽街、ファッション街になっているので知的雰囲気があまりない。これは他の大学前も似たり寄ったりですが、たとえば大学前に本屋が見当たらないのがそうですね。歓楽街、ファッション街なので土地代や家賃が高く、もうけにならない本屋はやってられないのです。韓国でも学生が本を読まなくなりましたから、大学前なのに本屋は商売にならないというわけです。

それでも筆者が語学留学した1970年代の中ごろの「ヨンデ」前には3軒の本屋があった。今は辛うじて一軒だけ残っていて「ホンイクムンコ(弘益文庫)」といいますが、これも閉店の危機があった際、マスコミが“存続キャンペーン”を展開した結果、採算度外視でやっているということのようです。

新村ロータリーの知的良心「ホンイク文庫」

ただ知的名残りとしては、実はロータリーから少し離れたところに古本屋があるんですね。「ホンデ」に行く途中、大通りに面して2軒と、引っ込んだ路地裏に1軒ある。筆者はそこで何年かごとに蔵書を処分しているんですが、ロータリー周辺での古本屋の存在というのは、オールドジェネレーションにとってはありがたくてうれしい、ささやかな知的風景です。

しかし大学前が歓楽街やファッション街というのは、大学当局にとってはやはり頭が痛いようです。日ごろ学生たちの関心があらぬ方に向いてしまって、勉強がおろそかになる心配があるからです。そこで「ヨンデ」ではシンチョン・ロータリーからの脱出計画が進行中なんです。すでにソウル近郊のインチョン空港がある新都市に一部移転を始めていて、とくに新入生はそこで勉強するようになっているようです。

ところでシンチョン・ロータリーを中心にした4大学には、いずれも外国人向けの韓国語スクールがあって、ロータリーでは外国人をよく見かけます。最も伝統があるのは筆者も通った「ヨンデ」の「韓国語学堂」ですが、ここは大学がミッションスクールだったので、元は米国人宣教師たちに布教活動のため韓国語を教えたのだと聞きました。大学以外でも韓国語学校があり、その老舗は「ホンデ」の近くにある「カナタ韓国語学院」でしょうか。この学校の名前は、本来は韓国語の「いろは…」にあたる「カナダ…」からきているのですが、国の名前と間違われるので「カナタ」にしたんですね。

こうみてくるとシンチョン・ロータリーは、外国人にとって韓国語学習の中心ということになります。1970年代の留学時のことで、下宿していた「シンチョン(新村)」にタクシーで帰る時、運転手にはよく間違って「シーチョン(市庁)」に連れていかれました。この韓国語の発音の区別は日本人には実に難しい。筆者は今もそんな韓国語と格闘しながらシンチョン・ロータリーに住んでいます。