神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第20回 佐野きく枝 神田外語学院第2代学院長『心の交流が争いのない世界を創る』

敗戦から蘇えろうとする東京・神田で、仕事に使える実務的な英語を教え始めた神田外語学院。先進的かつ、実践的な教育は高い評価を得ましたが、その基礎は、佐野公一先生とともに学院を創立した佐野きく枝先生の教育や生き方に対する信念にありました。学ぶ意欲を引き出す。男女が助け合う関係を築く。人と人のつながりが平和な世界を導く。雑誌の記事などに残されたご本人の言葉に、その哲学を探っていきます。(構成・文:山口剛/文中敬称略)

佐野きく枝は明治39(1906)年に現在の福井県鯖江市で生まれた。旧姓を黒田という。黒田家は元来、鯖江の地主であった。きく枝は、父である黒田金右衛門の教育の影響を大きく受けながら育っていった。金右衛門は江戸時代終わりの安政2(1855)年生まれである。

「父は、当時としては物の見方・考え方の新しい人でした。写真を撮ると、それに絵具で色をつけて、今のカラー写真ですね、そんな物を明治時代につくってよろこんでいました。私は兄・弟のなかの一人娘でしたが、父は、いろいろなことを話し、教えてくれました。」(※1)

当時、写真と言えば、非常に高価なものであり、かつ最新のメディアであった。金右衛門が写真館を開いたのは敦賀。中世から韓国や中国との交易を行ってきた日本海に面する港町である。きく枝が生まれるほんの数年前の明治32(1899)年には国際港として開港し、ロシアや朝鮮半島、中国などの対岸諸国と定期航路が開設された。まさに日本海側の国際交易の要所であり、国際都市だった。金右衛門は異文化を肌で感じ、進歩的な考え方を体得していったのだろう。

金右衛門は、きく枝にテニスとピンポンをやらせた。身体が弱い女性がいると家の中が暗くなりがちだからである。そして、勉強をするよう言い聞かせた。

写真上:佐野きく枝先生
(佐野学園所蔵)?
写真下:きく枝の父、金右衛門の弟にあた
る山岸甚右衛門の写真。明治34年?35年
に撮影された。甚右衛門は佐野学園監事
の山岸秀豪氏の祖父にあたる。文久2
(1862)年生まれで、18歳で山岸家の
養子となった。
(山岸秀豪氏提供、塩澤秀樹氏撮影)

「当時は、どこの家庭も女に学問はいらない、本を読んでもいやがられるような時代でしたでしょ。でも、父は、お勝手仕事とか掃除は、女は17才か18才になれば、だれでも自然にできるんだから、やらなくていい。それより、勉強は頭の柔軟な、若いときにやっておかないとダメだって、そういう教育をする人だった。」「それから、『人間は顔で生きるんじゃない、大切なのは魂だよ。魂をみがかなきゃいけない』ってことも、しょっちゅういってました。」(※2) (1/7)

  1. 「対談 心の触れあう教育を」(『婦人公論』、中央公論社、昭和54年9月号)より
  2. 「新女性セミナー 神田外語学院・学院長 佐野きく枝さん」(『女性セブン』、小学館、昭和60年4月25日号)より
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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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