神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第10回 古田暁神田外語大学名誉教授『異文化コミュニケーションの夜明け』

民族教育をなすことは、
「人間」を作るうえに絶対に必要である。

日本人の移住にかける古田純三の想いとは裏腹に、当時のアメリカでは日本人排斥が強まっていく。大正13(1924)年、アメリカ議会で排日移民法が可決。アメリカに帰化できない東洋人の入国を禁じたこの法律によって、日本人のアメリカへの移住の道は閉ざされた。

古田暁は、昭和4(1929)年2月19日、ロサンゼルスで生まれた。この年の6月、父の純三はまだ赤ん坊だった暁と家族を連れて日本に帰国した。アメリカで生まれた暁はアメリカの国籍を持つこととなった。暁が幼少期から少年期を過ごした時代、日本は国際社会との溝を深めていた。満州事変、国際連盟脱退、そして日中戦争の勃発。昭和16(1941)年12月8日には、真珠湾攻撃を行い、アメリカとの戦争状態に突入していく。それでも純三は移民支援の活動に精力を傾け、終戦になるまでアメリカ、ブラジル、中国を訪れ続けた。

アメリカに留まらず、日本に帰ってきたことは、暁の人生に大きな意味を与えた。暁は、国籍はアメリカだが、日本の風土と文化のなかで成長したのである。父の純三は、アメリカの日系移民2世の実態を通じて、文化的な環境が人の成長にどれほど大きな影響を与えるかを理解していた。

「先年シカゴ大学のパークス博士が、太平洋沿岸の各国移民の学童を研究した際、日本の第二世が最も優秀である事を述べているが、日本人第二世の内の不良青年の大半が日本語を解せぬことを発見し、日本人第二世に日本語教育をすることの必要性を結論していたのである。(中略)かくのごとく日本語を通し、民族的教育をなすことは偏狭な「愛民族心」のなさしむるにあらず、「人間」を作るうえに絶対に必要にして、そのことを幾多の学者がこれを証明し出して来たのである」(※2)

自らの内に日本の文化を得たことは、暁が50代になってから学び始める異文化コミュニケーションの世界でも大切な条件となっていくのだ。(2/15)

  1. 古田純三著『移住と宗教』(日本力行会、1932年)P20
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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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