神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第3回 フランシス・C・ジョンソン神田外語大学名誉教授『ELIのカリキュラムは進化する』

日本で教えることなど考えたこともなかった。
2年のつもりの滞在が、結局、20年になりました。

昭和60(1985)年のことです。私は香港からハワイに戻り、ハワイ大学の教育学部で教授をしていました。あるとき、大学の同僚であるジャック・リチャーズ教授から相談を持ちかけられました。「ジョンソン教授、日本へ行ってみませんか?」と彼は聞くのです。

リチャーズ教授も私と同じく、外国語としての英語教育の教授でした。彼は、昭和62(1987)年に開学予定だった神田外語大学に教授として招聘されることになっていたのです。しかし、ある事情で行けなくなってしまった。すると、大学の設立に向けて準備を進めていた山本和男先生はとても動揺したそうです。きっと、大学設立に関する規則か何かで、教授職の人材が必要だったのでしょう。「これでは計画が台無しになってしまう」と慌てる山本先生に、リチャーズ教授は「代わりに適任者を探してきましょう」と言いました。それが私だったのです。

リチャーズ教授から相談を受けて、私は日本行きを引き受けました。日本には行ったこともなければ、ましてや教えることなど考えたこともありませんでした。でも、引き受けました。まぁ、好奇心があったのですね。2年間の約束です。なぜなら、私はコメと魚が苦手だったのです。だから日本で長く生活するのは難しいと思ったのです。でも、2年のつもりが結局、20年になってしまいましたね。そして、今も日本に通っています。

余談ですが、来日して、千葉の若松台に住んでいたときに、近所の方が「本当の日本料理を食べに行きましょう」と食事に誘ってくれました。シラウオが食べられる店に行ったのです。ご存知でしょうか。生きている魚です。私は火を通した魚でも苦手なのに(笑)。

来日したのは、昭和61(1986)年です。神田外語大学が開学するちょうど1年前です。私の仕事は、入学試験の作成、そして英語運用能力カリキュラムの構築でした。

入学試験の作成では、ひとつ印象的な思い出があります。私は英米語学科の入学試験で、全得点の40%をリスニングに割り当てました。しかし、この試験案を見た教員の多くは、「これは普通じゃありません。東京大学だって、リスニングの割当は10%ぐらいですよ。うちは新設の大学だから、そんなことはやるべきじゃありません」と猛反対です。しかし、私の意見は違いました。神田外語大学は、外国語を話すことに力を入れていく。だからこそ、リスニングを学んだことのある人々、そしてリスニングの能力のある人たちを募集していくべきだと主張したのです。

その議論は、大学設置準備委員会でも行われました。会合でも、「40%では割当が大きすぎるのではないか」という意見が大半を占めていました。すると、会合に出席していた佐野隆治会長(当時は事務長)が立ち上がり、こう発言しました。

「神田外語大学は他の大学とは違う大学にしていく。だから、他とは違う入学試験も必要でしょう」

佐野会長はリスニングの比重を大きくする私の入試案を支持してくれたのです。佐野会長は、大学教育を変革していくという信念、そして、神田外語大学を個性的な大学にするという強い信念をお持ちでした。その信念が神田外語大学を前へ前へと押し進めていったのです。

会長のお母様であるミセス佐野(佐野きく枝理事長:当時)のこともよく覚えていますよ。ミセス佐野はとても素晴らしい教師でした。彼女はいつも大学の授業に関心を持ち、教室で何が起こっているか知的な質問をされました。それと、当時はボーナスが現金で支給されていました。神田の学院で受け取ったのですが、我々外国人は現金で大金を持ち歩くことに慣れていません。だから、ミセス佐野からボーナスをいただいた後に、最初に目についた銀行に飛び込んだ記憶がありますね。(2/6)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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