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ジャーナリストへの道④ー新幹線開通と東京五輪

2024/05/13

文 黒田 勝弘 (アジア言語学科韓国語専攻客員教授・産経新聞ソウル駐在客員論説委員)

筆者の顔写真

東京オリンピックは筆者にとっては、ことのほか思い出深い。2021年のコロナ禍の中のオリンピックではない。1964年(昭和39年)10月に開催された60年前の最初のオリンピックのことである。筆者の記者人生はこの年にスタートしたからです。オリンピック開催は日本にとっては史上初めての歴史的イベントであり、その取材のためマスコミ各社も例年になく採用を増やすなど力を入れていた。しかし筆者が就職に際しジャーナリストを選択したのは東京オリンピックのせいではないんですね。

 

1960年代の半ばの日本は“所得倍増”といわれた高度経済成長が始まった時期で、学生たちは就職には困らなかった。とくに民間企業では引く手あまただった。入社はほとんど無試験に近く、面接に行けば交通費はもちろんお小使いまでもらえました。そんな時代に厳しい就職試験があったのが公務員とマスコミだった。筆者は京都大学経済学部卒だったので友人の多くは商社や銀行など民間企業に就職した。卒業生200人のうちメディアに就職したのはわずか二人だけだったですね。

就職に際し記者という職業を選んだのは、記者には「フリーな仕事」という感じがあったからです。モノを書く仕事ということで、時間的、空間的な制約が無くて個人がより生かされると思った。企業や公務員というのは「個人より組織」が重視され、自由が利かない世界というイメージだったですね。したがって端的にいえば「勤め人的ではない知的でフリーな生活」を夢見たわけです。

 

ところが記者になって分かったんですが、実際は真逆だった。確かにある意味では勤務時間のような時間的制限はなかったけれど、事故、事件をはじめニュースになる出来事は時間に関係なく起きます。ということはそれにかかわる記者の仕事は24時間ということになる。空間的にもまた、オフィスに座って仕事をするより現場に出かけたり人に会ったりすることが多いので、逆にしょっちゅうあちこち動き回らなければならない。さらに記者は知的というより、意外に“体力”が必要です。もちろん自分の工夫で文章を書くのは知的ではあるが、そこにいたるいわゆる取材は“体力仕事”だったんですね。

 

にもかかわらずその後、現在にいたるまで60年間も記者の仕事を飽きもせずやってきたのはなぜだろう?

 

ニュースというのはもともと事故や事件など「新しい出来事」や「新しい話」のことです。この新しい出来事や話には当然、「へええ!」という驚きがともなう。そして驚きにはきまって「どうして?」という疑問がついてくる。この「へええ!」と「どうして?」は別の言葉でいえば好奇心のことです。筆者はこの好奇心で記者人生を過ごしてきたように思う。好奇心こそ人生を面白く過ごすためのキーワードですね。

 

60年前の1964年東京オリンピックの話に戻ります。その年、記者人生をスタートしたにもかかわらず、オリンピックの現場はほとんど記憶に残っていない。入社したばかりでろくに記事も書けない新米記者は、歴史的ビッグ・イベントだったオリンピック現場取材などやらせてもらなかった。使い走りみたいなことばかりで、肝心の競技もテレビで観た記憶しかないですね。

ちなみに競技の思い出としては二つある。宿敵・ソ連を破って金メダルに輝いた女子バレーボールの「回転レシーブ」と、男子マラソンで最後にスタジアムに入って抜かれた円谷幸吉の銅メダルです。陸上自衛隊出身で真面目人間だった円谷は、その後、次のメキシコ大会を目指しがんばっていたんですが「幸吉はもう走れません」という遺書を残して自ら命を絶ち、国民を泣かせました。

 

それよりも筆者の東京オリンピックの思い出は、実は「新幹線」です。世界最初の高速鉄道として日本の新幹線は今や国際的にも「シンカンセン」の名で知られていますが、オリンピックを前に4月から(だったと記憶するが)試運転が行われた。その時、メディアも試乗会に招かれ、新人記者に対する訓練の一つとして“新幹線試乗記”を書いてみろ、となったんですね。東京―新横浜間の往復で、記事の内容はもう覚えてませんが、筆者にとって「オレは試運転の新幹線に乗った!」は今でも自慢話になっています。

60年前のことでは、記者になるに際しどのメディアを選択したのかも書いておかなければならない。当時のマスコミ各社の採用試験は、大手の朝日、毎日、読売の三社と共同通信、NHKの計五社が同じ試験日だった。このうちどこを選ぶかだったが、筆者は一般にはあまり知られていない共同通信を選んだのです。

 

通信社とは新聞や放送など他のメディアにニュースを提供するニュースの問屋みたいなところなので、メデイアとしてはあまり目立たない。諸外国にもAP、AFP、ロイターとか新華社、ブルムバーグなど多くの通信社があって重要な役割をしていますが、自ら新聞や放送をもっているわけではないので知る人ぞ知るです。

 

ところが、たとえば日本の場合、各県で地元に対し大きな影響力を持っている地方紙の記事は共同通信からの提供が多い。朝日、毎日、読売といった中央の大手紙に対抗し、がんばっている地方紙を支えているのは共同通信というわけです。そんな縁の下の力持ち的なメディアで仕事をするのもかっこいいではないか、と思って共同通信を選んだのでした。

 

この選択の背景には、エッセイの②回目にも書いたように、地方紙に対する筆者の思い出があった。日本には朝日、読売、毎日などとは別にたくさんの新聞(地方紙)があるんだという、少年時代の新鮮な驚きの記憶がよみがえったんですね。それに中央紙対地方紙というメディア界の図式があり、そこに学生時代の素朴な正義観(?)からくる弱者への肩入れ心理も作用したように思います。

 

共同通信には25年ほど在籍し、前半は広島勤務を含め国内ニュースを担当し、後半は韓国を中心に海外ニュースを受け持った。国内では新人記者として四年間勤務した広島時代が思い出深い。広島といえばジャーナリスト的には「原爆」と「広島カープ」ですが、このうち原爆に関連しては前回書いたので今度は広島カープのことになります。筆者は広島でのプロ野球取材をきっかけに、60年間にわたる広島カープファンである。カープにまつわる自慢話は、広島勤務の後になるけれど、カープが史上初めて優勝した1975年の東京・後楽園球場での胴上げシーンを現場取材していることです。以下は次回に続く。