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ジャーナリストへの道③ーゴジラはなぜ登場したか

2024/04/05

文 黒田 勝弘 (アジア言語学科韓国語専攻客員教授・産経新聞ソウル駐在客員論説委員)

筆者の顔写真

今年の米アカデミー賞の受賞作品に日本映画が二つ入っていた。一つは長編アニメ賞の『君たちはどう生きるか』で、もう一つは視覚効果賞の『ゴジラ-1.0』だった。日本製の各種ゴジラ映画は国際的に有名になって久しいが、このゴジラについては少年時代に面白い思い出がある。今回はその話を書きます。

 

最初のゴジラ映画は筆者が中学一年だった1954年に公開されている。もうほとんど忘れられていることですが、そもそもあの怪獣をなぜ「ゴジラ」というのか?あれは実は「ゴリラ」と「クジラ」の合成語なんですね。ゴリラは米国の古典的空想映画『キングコング』の主人公が巨大化したゴリラだったので、そのイメージと海の巨大動物で日本人に馴染みのクジラのイメージを重ね合わせたのだ。「ゴジラ」は海底から再生して現れる空想上の恐竜なので、海のイメージが必要だったわけです。

第一作の『ゴジラ』は大ヒットしたので早速、翌1955年には第二作が作られた。これは『ゴジラの逆襲』というタイトルで、一作目はゴジラが暴れる舞台は東京だったので、二作目は大阪が舞台になった。これにはあらたに「アンギラス」という怪獣も登場した。ゴジラは大阪湾から上陸してきて、大阪城をぶっ壊すなど大暴れするのだが、この“大阪上陸”の場面の撮影(ロケハン)が実は筆者が通っていた春日出中学校の屋上で行われたんです。

 

この中学校は大阪港に近い安治川の河岸にあって、近くに戦時中の空襲で破壊された通称「八本煙突」といわれた大型火力発電所の煙突の残骸がそのまま残っていた。したがってゴジラが周りの建物を破壊しながら安治川をさかのぼって大阪城にいたるというのには、もってこいの風景だったんですね。

 

この話は生徒たちにとってはビッグニュースである。前回紹介したように筆者はこの中学校で一年の時『学級新聞ちどり』の”記者“をしている。『ゴジラの逆襲』の公開は中学二年の時だから、この話は学級新聞の絶好のネタになるはずだ。しかし残念ながら筆者は二年の時に引っ越しで大阪市内の別の学校に転校してしまった。あのまま転校せず、学級新聞も続いていたなら”歴史的な記事“を書いただろうに、と今も思い出すだに残念ですね(笑)。

 

ところで日本でのゴジラ映画のスタートには国際的背景がありました。当時、米国が中部太平洋で原爆や水爆など核兵器の実験を盛んにやっていて、その影響で日本の遠洋マグロ漁船が放射能を浴びて被ばくするという事件まで起きている。「第五福竜丸事件」がそれだが、船長は後に放射能被害で死亡している。この事件が映画『ゴジラ』公開の半年ほど前だった。ゴジラは「核実験の影響を受けて海底からよみがえった怪獣」という設定だったので、この事件のせいもあって映画はいっそう関心を呼んだというわけです。

 

娯楽映画ではあったけれど、ゴジラ映画には米ソ対立の冷戦時代を背景に激化した核実験という核兵器開発競争に対する批判のメッセージが込められていたんです。

日本は広島・長崎の原爆被災という歴史的体験もあって、強大国による核実験やそれによる放射能被害には敏感だった。ゴジラ誕生にはそうした日本人の感情が反映していたのですが、一方ではこのころ原子力あるいは核物質について兵器や軍事ではなく“平和的利用”が大きな課題として語られるようになりました。それが原子力平和利用のシンボルとして、原子力開発つまり原子力発電(原発)に関心が高まることにつながるんです。

 

現在、日本では東日本大震災の際の津波による“フクシマ原発事故”をきっかけに原発批判が活発です。これは国際的潮流にもなっている。しかし原発は原子力の平和利用としてスタートし、兵器に代る平和の道具として時代の脚光を浴びたという歴史があるんですね。

 

筆者の少年時代ですが、1950年代から60年代にかけて日本では米国、ソ連(今のロシア)、中国の核開発競争でもたらされる「死の灰」とか「放射能の雨」が大きな問題になりました。その結果、現状批判とその代案として核兵器ではない“平和イコール原発”という雰囲気が生まれたというわけです。

 

ゴジラ、核実験、原発…という時代の流れのなかで、筆者も高校時代には学校の図書館で原子力関係の本を熱心に読んだ。数学や物理など理科系の勉強は苦手だったのですが、核実験競争というニュースがしきりに流れていたため核物理学や原子力については結構、関心がありました。どこか“未来学”みたいな感じで、時代の先端への好奇心というか。

後に新聞記者として最初の赴任先が偶然ながら広島になり、いわゆる被爆者問題や原水爆禁止平和運動などを取材することになるのですが、「ゴジラからヒロシマへ」というのは思えば妙な縁ですね。

 

高校入学が1957年で大学入学が1960年でしたが、高校でも大学でも後の職業選択としての新聞記者(ジャーナリスト)を意識したことはまったくなかった。気の向くまま本だけはよく読みました。高校時代は受験勉強が中心でしたが、当時は塾通いなど一般的ではなかったので、息抜きとして好きな飛行機に関する本や雑誌を読んでいた。今も飛行機には結構、詳しい。そして大学進学に際しては文科系の経済学部を選択したのだが、これも漠然と「これからは経済の時代かもしれない」という勝手な予感と、法学部や文学部ではどこか古くさいというイメージがあったからです。

 

しかし大学でも経済のことはまともに勉強しなかったように思う。当時の大学はいわゆる“60年安保闘争”といわれた政治の季節で、デモばかりの時代でしたね。ただ経済学はそっちのけで雑多な本を乱読し、映画を観ては文学雑誌に映画評を投稿したりしていた。卒業に際しては「気楽で自由な職業」と思って新聞記者を選択したのですが、これが大間違い。実は知的というよりまずは肉体仕事だと分かった。次回はそんなあたりを紹介します。