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ジャーナリストへの道②ー子ども新聞の思い出

2024/02/27

文 黒田 勝弘(アジア言語学科韓国語専攻客員教授)

筆者の顔写真

筆者の両親は鹿児島出身で、戦前、大阪に移住し、筆者は大阪で生まれた。戦時中に父は戦地に向かい、残った家族は鹿児島に疎開した。家族が大阪に戻ったのは終戦から3年後の1948年(昭和23年)で筆者は小学2年だった。鹿児島の田舎から大都会の大阪に来て、今も覚えている印象的なことが二つあった。一つは小学校の同級生の女の子から「黒田クン」と呼ばれたことですね。田舎では小学生など子供同士は姓ではなく名前で呼び合っていた。この「クン」は実に新鮮で驚きだった。しかも女の子がそういう。「これが都会なんだ!」と感動しましたね。

 

もう一つは大阪駅前にあった阪急百貨店に行った時です。大阪は戦時中の米軍による空襲で焼け野原になったけれど、阪急百貨店は焼け残って営業をしていました。その7階の窓から下を行き交う車を見下ろして驚いた。「あんなにたくさんの自動車がひっきりなしに走っている!」敗戦後の大阪は早くもそれほど復興しつつあった。母から何回もソデを引っ張られるまでかなり長い間、下を見下ろしていたように思う。いずれも田舎から出てきた少年の都会での感動ですね。

 

その大阪で小学生時代に撮った古びた1枚の白黒写真が記憶にある。今は紛失して手元には無いのだが、そこには不思議な風景が映っていた。運動会の時と思われる白いテント張りの下で、机の前に筆者が座っていてその机に「記者席」と書かれた紙が貼ってあったのだ。詳細は記憶にないのだが、当時、小学校に児童たちで作る確か「子ども新聞」というのがあって、筆者はその“記者”として運動会のテントの中にいたというわけですね。それがどんな”新聞“で筆者がどんな”記事”を書いたのかまったく覚えていないのですが。

ところが中学生になって、筆者はまた新聞記者(?)をしている。こちらも記憶は無かったが実は“記録”があった。ずいぶん以前のことで、中学1年生(1954年)当時の担任だった先生から「こんなものが見つかった」と手紙が送られてきた。「学級新聞ちどり」と題したA3ほどの1ページ大の手作り新聞のコピーが入っていたんですね。新聞といっても、当時だからいわゆるわら半紙大で手書きのいわゆるガリ版印刷である。1年5組制作「第3号」とあり、題字の下のローマ字「C・N・P」はおそらく「クラス・ニュース・ペーパー」の意味だろう。編集者3人の中に筆者の名前が確かにあった。

 

今から70年前のこの学級新聞のトップ記事は「1年の思い出」という見出しで、クラス対抗野球大会や柔道大会の結果、弁論大会での成績などが紹介されていて、弁論大会では「黒田君が出場し決選までいったが惜しくも入賞出来なかった」とある。「文芸らん」などというのもあって「笑い話」や「クイズ」が記事になっている。この号で1年生が終わるということから、クラスメート全員の住所録まで載せている。

小学校や中学校で児童・生徒によるこんな新聞が作られたのは、戦後のいわゆるアメリカ式教育のせいだろう。児童・生徒の自主的活動が重視され、クラスでは毎週1回、児童・生徒だけで時間を過ごす「ホームルーム」というのもあった。筆者はもっぱら「クイズ班長」でみんなを楽しませた。新聞作りといいクイズ係といい、今から考えれば子供ながら物事に結構“好奇心が強かったようだ。思い出せば学校のテストで筆者は、いつも社会の点数が抜群でしたね。

 

新聞への関心ということでは、父の職業が関係したかもしれない。その職業はことさら知的なものではなく、当時、公務員だった鉄道郵便の下級職員として、列車に乗り込んで郵便物を仕分けて各地に届ける仕事だった。そのため大阪を拠点に出張の折には各地で発行されている新聞をよく家に持ち帰った。福岡の西日本新聞、山口の防長新聞、広島の中国新聞、岡山の山陽新聞、鳥取の日本海新聞…。したがって筆者は子どものころから、新聞には朝日や毎日、産経などのほかに日本各地にたくさんの新聞、つまり多くの地方紙があることを知っていたんですね。

 

その結果、一時、新聞の題字を切り抜いて集めることに熱中した時期があった。子どものころよくやる切手のコレクションと同じである。題字を集めていて分かったのですが、毎日発行される普通の新聞のほかに、いろんな専門分野のいわゆる業界紙というもあり、これまで集めだすと大変なので題字コレクションはあきらめました。

 

父が持ち帰る読み古した地方紙の題字をながめながら、子ども心に新聞への好奇心や親しみを感じたというわけですが、新聞でいえばもう一つ、ささやかながら子ども時代の新聞配達の経験も新聞への親しみにつながったかもしれない。これは5歳上の兄が心身の鍛錬にいいという父のすすめで早朝、新聞配達をしていた時期があり、その手伝いをしたのです、兄が風邪を引くなど体調が悪い時に代わりによくやらされた。早朝に配達する、印刷されたばかりの新聞の匂いは独特で、あのフレッシュな”香り“は今も懐かしい。

そんなころ、大阪のはずれにはまだ戦時中の戦災跡が残っていて、そのコンクリートの瓦礫の中から屑鉄を探し出して売れば子どもたちの小遣い銭になった。朝鮮戦争(1950-53年)が起きると屑鉄の値段が高騰し、子どもたちの懐をうるおしたんですね。ところで早朝、新聞配達に出ると途中よく便意をもよおす。トイレなどないので野草が茂る瓦礫の陰でやるしかない。チリ紙もないので草の葉で代用する。子どものころの早朝の新聞の香りとあの草葉の香りは、筆者の追憶の中で微妙に重なっている。