CULTURE

ソウル今便り4「人の風景こそ面白い」

2022/11/25

文&写真 黒田 勝弘(アジア言語学科韓国語専攻客員教授)

筆者の顔写真

ソウルと東京で地下鉄の車内風景を見比べると面白い。ソウルでは乗客のほぼ90%がスマホに見入っているが、東京では50%ほどですね。韓国がいかにスマホ社会であるかが分かる。ソウルでは若者はほぼ100%スマホで、日本では年配者のスマホは少ない。筆者は若者街のワンルーム・マンションに住んでいますが、エレベーターに乗ってくる居住者のほぼ全員がエレベーターを降りるまでスマホを見ています。地下鉄では、東京の場合、乗客が文庫本など本を読んでいる風景が結構ありますが、ソウルではまずない。この違いは、紙の活字になじんだ筆者のような年配世代にはうれしい。このように韓国人の皆さんは外に出ると、歩きながらをふくめスマホを見ているのだが、外国人の筆者はスマホの代わりにそんな韓国人の風景を見て楽しんでいます。

地下鉄車内のスマホ風景

「マン・ウォッチング」という言葉があります。外国暮らしや留学生活においてはこうした“人間観察”が面白く、勉強になり、その国の理解になるんですね。また日本のことわざに「イヌも歩けば棒に当たる」とあるように、ぶらり外歩き、街歩きは楽しみの宝庫であり、発見のチャンスです。とくに外国の場合、風景においても建物や自然もさることながら、やはり“人の風景”がもっともエキゾチックなんですね。これはスマホ時代にはことのほか重要です。最近の人の風景としてはやはりコロナ禍での風景が気になるし、面白い。

信号待ちもスマホ

このところコロナ規制緩和で、ソウルの街の人出はほぼ正常化しつつあり、観光客も戻りつつありますが、マスク着用だけは依然、厳しい。地下鉄では改札口を通過するたびに必ず「マスクをしなさい!」と録音が流れ、バスではつけ忘れて乗ると運転手に「マスクして!」とどなられる。車内放送は今でも「マスクしないと10万ウオンの罰金です」とやっている。さらに高速鉄道のKTXでは、巡回の車掌が乗客のマスク着用をチェックして回っている。悩ましいのは食堂です。お店に入って座って食事が出てくるまではマスクをし、食べる時はずしていいというのだが、これが難しい。いやどこか矛盾している。

というのは、お店でのマスク規制というのは当然、コロナ防疫のためです。端的にいえば、おしゃべりによる口からの飛沫防止のためなのだが、韓国の皆さんがにぎやかになるのは食事が出てきてからなので、そこでマスクをはずすと防疫上の意味はなくなる。もともと韓国人の食の風景は実ににぎやかです。とくに焼肉を囲むと声が高くなるし、酒が加わるといっそうにぎやかになって、うるさい。それに日本人の観点からいえば、韓国語そのものに激しい発音が多いためため、いっそううるさく聞こえる。韓国映画や韓ドラを見る日本人からよく聞く「韓国人はいつもケンカしているみたい…」というのも、韓国語の発音の特徴からきているんですね。

つまり、食事しながらチッ、カッ、パッ、タッ…などといった激しい発音が大声で飛び交っているわけですから、これはコロナ防疫上まずい。しかし「黙って飲食しなさい!」というのは韓国人には拷問みたいなものですから、できない。規制緩和で満を持していた人たちが、年末に向け今、お店にどっと繰り出しているので、盛り上がりぶりはコロナ前以上になっている。筆者はそんな皆さんとお店で隣り合わせになり、コロナ不安より大声に耐えられなくなると年配者の特権(?)を活用し「少し静かにしてよ」と注意するが、瞬間的に静かになってもすぐ元に戻る。コロナ防疫当局も頭が痛いだろうがどうにもならない。

お店の順番待ちはマスクで、中に入ると外して盛り上がる

コロナ事態の初期、韓国でも予防対策として生活習慣の見直しが強調されました。手をよく洗うことなどその一つです。日本人が手をよく洗うのは国際的に異例(?)に属しますが、韓国は日本に比べ雨量が少なく乾燥しているので、伝統的には手洗いはそんなに定着していなかったからです。この手洗い励行とともに、新たな生活習慣として当局がアピールしたのが食習慣。韓国の食文化には、料理を分け取る際の取り箸、取り皿は一般的ではなく、スープ類でも皆でスプーンを直接口にもってくるスタイルだった。焼き魚、煮魚でも皆で一つのモノをつついて食べる。日本語に親しい仲間を意味する言葉として「同じ釜の飯を食う」というのがありますが、韓国では皆で食すること自体が親しみの場であり、皆でつつき、皆ですすり合うのは自然、当然だった。だから夫婦、家族、恋人、友人…など親しい間柄ではラーメンでもパッピンス(かき氷)でも、皆で箸やスプーンを突っ込んで食する風景をよく見かける。

 

当局はコロナ防疫上、この食習慣はまずいと判断し“取り分け”を奨励し、取り皿や取り箸は急速に広がりました。今や鍋料理を含めスープ物にはきまって取り皿がつくようになりましたが、風景としては恋人、友人たちはまだラーメンを一緒にすすっています。親しい仲で“取り分け”は水くさいということでしょうか。これは人間関係にかかわる伝統文化ですから、コロナ禍という緊急事態が後退すれば元に戻るのかも?まして飲食の際の言語文化が変わるというのは難しい。韓国語の発音も変えられない。そこで当局は当初「食事の会話は静かに」と呼び掛けていましたが、これはほとんど変化がなかったようです。ただコロナは別にしても、そして個別文化としての食文化は尊重するとして、国際化時代の普遍的(?)マナーとしての「静かな食事」もあっていいと思う今日このごろです。筆者が歳を取ったせいですかね。