神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第13回 佐藤武揚学校法人佐野学園元理事『専門学校の可能性を追求し続けて』

佐野会長には「学校の中のことは俺がやる。
外のことはお前がやってくれ」と言われました

公一先生には生前、「海外の大学で勉強してみたらどうだ」とおっしゃっていただきました。大学設立のためにです。僕は昭和55(1980)年と56(1981)年の2年間、アメリカのデンバー大学に留学しました。職員の長期海外研修は初めてでした。アメリカの教育の実態を知るために、現地の幼稚園から高校まで視察に行き、行われている教育を自分の目で確かめました。大学の授業で印象に残っているのは、社会で実際に活躍されている方が大学の講義を持っていることでした。学生たちは、プロの現場の生の声を聞かせてもらいながら、論文を書いていく。素晴らしいと思いました。日本は大学の先生になってしまうと、実社会のことには関心を持たない方もいましたらからね(※2)

デンバー大学での留学から日本に帰ってきたのは、昭和57(1982)年の3月です。当時は、大学の設置の準備が本格的に始まりましたが、僕は学院のほうの仕事に専念していました。5年後の昭和62(1987)年4月、神田外語大学が開学しました。年が明けた1月11日、佐野きく枝先生がお亡くなりになった。きく枝先生には本当に可愛がっていただきました。きく枝先生は母のような存在でした。佐野隆治会長は、理事長に就任して、大学の経営を軌道に乗せることに力を注いでいました。僕は学院の事務長になって、学院の実務を任されるようになりました。

話はちょっと遡りますが、デンバー大学での留学を終えて日本に帰ってきたばかりのことです。文化服装学院の理事長の大沼淳(すなお)さんから電話がかかってきたんです。僕が応対すると、大沼さんは「神田外語は大きな学校なのに、なんで専門学校の協会の役員をしてくれないんだ。ぜひやってほしい」とおっしゃるんです。

昭和51(1976)年に専門学校が認められて、それぞれの分野ごとに協会ができていました。神田外語学院はもちろん関係する協会に加盟はするのだけど、役職には就かない。事務長だった佐野隆治会長も、昭和53(1978)年に佐野公一先生が亡くなられたうえに、大学の設立準備もあり、協会の仕事どころではなかったのでしょう。

大沼さんからの話を佐野会長にお伝えすると、「学校の中のことは俺がやる。外のことは君がやってくれ」と言われました。それからずっと色んな団体の役職、そして文部省への対応をしてきましたね。でも、何かあれば佐野会長に報告するし、状況を伝えて判断を仰いでいました。だから、外の仕事が増えても常に一緒に仕事をしているという感覚はありましたよ。(7/10)

  1. 佐藤武揚氏の留学後、佐野学園では奉職年数の長い中堅職員が海外で長期間にわたり留学や視察の行える制度を設けた。
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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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