神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第6回 川田雄基ブリティッシュヒルズ名誉館長『本物の英国があることに誇りを持つ』

医師は天を仰いで、「そうなんです!」と答えた。
私は絵師の感性のすさまじさに衝撃を受けました。

ポートレイトギャラリーの成り立ちについてもお話をしましょう。

マナーハウスでは、代々受け継いできた主や家族の肖像画を飾るものです。有名なのは、スコットランドのホリールード宮殿。スコットランドの王様のスチュワート王家ですね。宮殿の回廊には、老いも若きも、美しい人から醜い人まで色んな顔が並んでいる。

ブリティッシュヒルズでも、本来であれば館の主人である佐野会長のご親族の肖像画が並んでなければならない。それを会長にお話すると、「よせやい!」と一蹴されました。そこで提案したのは、幕末、明治維新、文明開化の頃に、日本に寄与した英国人を並べることでした。建物の構造上、9枚がちょうどよかったので、9人の英国人を選び、佐野会長からもご快諾をいただきました。

明治が終わるまでに、2000人くらいのお雇い外国人が来たそうです。その大半が英国人で、7割ぐらいがスコットランド人。フランス人もいたし、ドイツ人もいたけれど、抜きん出て日本に功績を残したのは英国人だった。若い世代の英国人たちは、維新後の若い国である日本を自分たちの責任で西欧につなげようとがんばった。彼らには志があった。あとで驚いたのは、選んだ9人の英国人全員が私の曾祖父や祖父の知り合いだったこと。トーマス・グラバーに至っては、私の曾祖父が三菱に引き入れた人物です。因縁というか、因果のようなものを感じましたね。

描くべき人物は決まった。じゃあ、画家をどうしようかと思い、英国人の先生方と相談して、ロンドンタイムズに広告を出しました。そうすると、当時、23、24歳のジェシカ・ブラウンという女流画家が応募してきた。彼女を気に入ったのは、彼女の手紙に「私はアーティスト(artist)ではなく、アルティザーン(artisan)です」とあったこと。「絵師」とでも言うのかな。画家でも、芸術家でもなく、絵の職人だという。お客様のお望みで、画材から画風まで、すべて合わせて変えますと言ってきた。

「これだ、彼女をつかまえろ!」って指示しましたね。1枚1枚、画風が変わってもいけないし、芸術家気取りの画家に任せて「これが私の芸術です!」なんてやられても困る。来日した彼女には「ポートレイトギャラリーは、すべてヴィクトリア時代の感じで統一してほしい」と伝えました。こうして、ブリティッシュヒルズでの絵画制作が始まりました。

ミス・ブラウンは、とても研究熱心な女性でした。例えば、アーモリー・ルームに、ウォーターローのスコットランド近衛騎兵の士官の肖像があります。彼女は英国の陸軍省や陸軍博物館にまで行って、当時の制服の有り様を調べてくるとともに、現地の専門家にも相談して、絵を描く準備をしていました。時代考証という点でもいい加減な仕事はしませんでしたね。

客室棟のラウンジの絵も彼女の作品です。7号棟のターナー棟では、どう見てもターナーの作品だという海の絵を描いた。沖合にだけ太陽の光が射していて、遠景には英国の堂々たる軍艦がいる。どう見ても、ターナーの絵にしか見えない。4号棟のラウンジには、ハンプトンコートにあるようなヘンリー8世の家族のポートレートを描いている。本当に、多芸多彩な女性でしたよ。

彼女の画力を痛感したのは、昭和天皇の肖像画です。昭和46(1971)年にバッキンガム宮殿に行幸されたときの集合写真と昭和50(1975)年の赤坂離宮にエリザベス2世がいらっしゃったときのスナップショットから描き起こした2枚の絵があります。この2枚を比べてみると、75年の昭和天皇のほうが御背中が曲がり、明らかに病気を発症されておられることが分かる。

後に、宮内庁で天皇や皇族の診療にあたる侍医局のドクターがここに来られたことがありました。そこで私は、「この絵は何も知らない画家が写真をもとに描いたものです。昭和天皇は1975年当時から発症されておられたのですか」と聞くと彼は天を仰いで、「そうなんです!」と答えられました。その時、私はジェシカ・ブラウンという絵師の感性のすさまじさに、改めて衝撃を受けました。(5/7)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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