異文化理解の先駆者たち

第7回 ゲイリー・M・フォンティン『異郷の地に適応できる心を求めて』

第二次世界大戦後の移民流入やベトナム戦争後のインドシナ難民の受け入れによって、アメリカでは人種差別問題などが生じ、多文化社会への対応を余儀なくされました。その解決策として異文化コミュニケーション力の強化が注目され始めた1970年代、異文化に適応する人々を支援したいという志を持ち、この分野に飛び込んだ人物に、現在ハワイ大学で名誉教授を務めるゲイリー・フォンティン氏がいます。教育、トレーニング、研究など、異なる現場を行き来するフォンティン氏の活動は、日本において異文化理解教育を追求してきた神田外語グループの歩みと共通するものがありました。(構成・文:山口剛/写真:山口雄太郎/文中敬称略)

ゲイリー・フォンティンには社会心理学者としてのある関心があった。仕事にも暮らしにも満足している人々が、やむない事情で環境や文化、社会システムの異なる「異郷の地」へと移住しなければならないとき、心のなかで何が起きるのか? その変化は、人々の心や信念、意欲にどのような変化を起こすのか? 彼は、こういった自身の関心が、当時新しい学問領域として注目され始めた異文化コミュニケーションと一致することに気づいた。フォンティンは1970年代、刑事司法システムを心理学的な面から研究してきた。しかし彼は、自身の研究対象を刑事司法システムから、文化の異なる人々が意思疎通を図るうえでの課題、そしてより効果的に課題に対処するためのスキルの解明へと切り替えたのである。

昭和54(1979)年、フォンティンはハワイへと移った。ハワイはアメリカの異文化理解教育において中心的な役割を果たしている。その流れを牽引したのは、イースト・ウエスト・センター(East-West Center)とハワイ大学だった。センターでは、ハワイ大学で学ぶ太平洋地域やアジア諸国からの留学生を支援するとともに、シンクタンクとしてアジア太平洋の地域研究を行ってきた。そしてハワイには元来、アメリカで最も豊かな多文化共生の土壌があり、大いなる「実験室」としての役割も果たしていたのである。

フォンティンがディレクターとしての職を得たのは行動科学研究所(The Institute of Behavioral Science:TIBS)である。同研究所では、沖縄などに駐留するアメリカ軍の兵士、海外に赴任する外交官やビジネスパーソンを対象に、異文化に適応するための研修を手がけていた。フォンティンは同研究所とともに、アメリカに定住を図ろうとする外国人のトレーニングを行い、国連難民高等弁務官事務所の助成金を得ながらインドシナ難民がアメリカ社会に順応するための支援をした。そして、昭和57(1982)年にはハワイ大学に新たに設立されたコミュニケーション学部の教授に抜擢された。同学部の主眼のひとつは異文化コミュニケーションだったのである。

1980年代初頭、異文化理解教育の必要性は日本でも高まっていた。昭和60(1985)年9月のプラザ合意によって生じた急激な円高によって、日本企業は海外に生産拠点を展開し始めた。世界という舞台でビジネスを始めた日本は当然のことながら、異文化の人々と対等に渡り合うことを余儀なくされていったのだ。(1/4)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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