神田外語大学同窓会

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【後編】神田外語からスタートした私の教員としての道

(前編を振り返って)

前回、神田外語大学第一期卒業生の藤井 大(ふじい だい)さんに、神田外語大学に進学した理由から、在学時代の様子や語学留学の経験談、そして、教職を選ぶまでのストーリーを紹介していただきました。今回は、その壮大なストーリーの第二弾として、特に教師という部分について執筆いただきました。(前編はこちら

最初に正式に赴任した高校での思い出

千葉県立高校で1年間の期限付講師を経験した後に、初めて赴任したのは、英語に苦手意識がある生徒がたくさんいる学校でした。高校1年生の授業を受け持ち、ローマ字を教えるところから始めました。

3年生の授業も受け持ちましたが、信じられないことに、毎回授業に10分以上遅刻して教室に入って来る生徒がクラスの半分ぐらいいたのです。20代だった私は、授業中に弁当を食べ始める生徒や話をやめない生徒と、とにかくぶつかりました。なぜ授業中にそんなことをするのか、全く理解できませんでした。

2年目からは初の担任も受け持ちましたが、ここには書けない生徒指導上の案件が毎週のように起こる学校でした。教科指導よりも生徒指導に頭を悩ませる日々を送りながら、若い同年代の先生方に囲まれて、なんとか若さを武器に生き延びていたという感じでした。

そのような状況で、勤務校がAssistant Language Teacher(ALT)の拠点校になったことが、私の運命を大きく変えたのです。偶然にも、同世代で趣味の合うアメリカ人のALTが英語科に常駐している状況となり、とにかくいろいろなことについて話をしました。

台風で2日目公演が中止になった伝説の第1回FUJI ROCK FESTIVALに一緒に行ったのも良い思い出です。今思えば、仕事をしながら英語の個人レッスンを受けているようなものでしたね。

毎週金曜日には、津田沼のSara’sというALTたちが集まるテントの居酒屋に通い、リアルな言葉を交わして「飲みニュケーション」したことで、それほどでもなかった自分の英語力が徐々に上がっていったように思います。しかし、ネイティヴ同士の会話は、半分も理解できませんでした。話しかけられれば応えられるものの、まだまだ彼らの話に割り込んで話すまでの域には達していませんでした。

次に赴任したのは超進学校

初任から7年勤めた学校から転勤した先は、超が付く進学校でした。私はジェットコースター人事で、千葉県全日制高校における最高偏差値差を味わった教員の一人です(笑)。

担任とサッカー部の顧問をしながら、毎日夜遅くまで教材研究をやりました。自転車操業でとにかく追いつくのに必死でした…。英語科で30代は私一人。私の次の年代は、一回り上の40代の先生方で、私の初任者研修で指導教官をされていた先生が2名もいる!職場でした。

最初の3年間は、ベテランの先生方に囲まれて楽しくもあり、苦しくもありました。自分の英語力はもとより、指導力の無さを生徒の反応から知ることになるという、ある意味厳しい職場だったと言えます。同世代が多かった職場から、一転、年の離れた先輩の多い職場になり、孤独を感じていたのかもしれません。本当にくじけそうになったこともありました。

ただ、ここでもALTの存在に救われました。日常的に話し相手になってもらい、授業でも積極的にティーム・ティーチングを行いました。同僚だったイギリス人のALTとは、後にイギリスで再会を果たしました。

また、学校独自の2週間のオーストラリア語学留学プログラムが新たにスタートし、その立ち上げに携わった先輩教諭と一緒に、志のある生徒たちを引率する機会を得たことで、やっと自分の居場所を見つけたような気がしました。

担任も2周目に入ると、相変わらず教材研究には時間がかかりますが、徐々に自分なりに指導をマネジメントできるようになりました。教員になって10年以上が過ぎ、自分の英語力を伸ばしたくて、TOEICなどを受験したり、英語教授法に興味を持つようになったりしたのもこの頃です。

部活が休みの月曜日の夜に、神田外語大学大学院の講義を受けて勉強しました。その時の講師が、現在お茶の水女子大学教授をされているダイアン・ナガトモ先生でした。ダイアン先生からは第2言語習得理論の基礎を教わりました。また、同じ志を持つ他校の先生方とも交流でき、教員になってからも神田外語大学のおかげで良い刺激をいただきました。

私の人生の大きな転機となった海外研修への参加

人生の転機というものは、良いことでも悪い事でも突然来るものです。2周目の担任を終えようとしていた1月、私の運命を大きく変えたのは、机上に置かれた一枚の書類でした。

その書類には文科省による教員対象の海外研修について書かれていました。私は大学生の時の短期米国留学以来、教員になってからは長期の留学については忙しすぎて諦めていたのです。しかし、手に取った瞬間、「留学したい」と直感的なものが脳内を走り、確実に私の中で変化が起きようとしていました。

もちろん応募しても選考があるので、全国の応募者から選ばれる可能性は低いだろうと自分でも思ったのですが、まずは応募してみたい気持ちを英語科の会議で同僚の先生方に伝えました。すると、皆さん口々に「やってみなよ」と、可能性の扉を開いてくださったことは、素直に嬉しかったです。

10年以上経ってから聞いた話ですが、当時の川名校長先生が県教育委員会まで足を運んでくださり、私の応募を後押ししてくださったそうです。本当に感謝しかありません。選考結果は希望通り、1年間の英国留学の候補者に選ばれ、数回の研修を経て、日本を発ちました。

2006年4月、私は教員研修センター主催「国際的な視野、識見を有する中核的教員を育成するための海外派遣研修(12ヶ月コース)」に参加するために、ロンドンに次ぐイギリスの第2の都市と言われ、産業革命とともに発展した都市バーミンガムに長崎県と島根県からの他の二人の研修生と共にやってきました。そして、ホームステイをしながら、バーミンガム大学に通い、研修を受けることになりました。

バーミンガム大学は100年以上の歴史があり、英語分野ではCOBUILDという辞書を開発したことで有名です。キャンパスはとても広く、私たちは大学の数多くある古い建物のひとつであるWestmereという建物にあるEnglish for International Students Unit(EISU)で、11ヶ月間の日本人英語教師専門のプログラムに参加しました。

このプログラムの中心になって指導して下さったのはドロタ・パチェック先生で、皆にとってお母さんのような存在でした。プログラムの前半は、英語の4技能に関する教授法やイギリス文化に関する授業で構成されていました。後半は、Academic Writingや大学院の授業に参加し、自分たちで選んだテーマに関する論文を完成させるというものでした。

大学院の授業では、アジアやヨーロッパから第2言語習得理論を学ぶ学生たちと一緒に講義を受け、議論し、週末にはパブに行って交流を深めるなど、充実した時間を過ごしました。私の人生の中で初めて勉強が楽しいと思えた1年でした。ALTだったイギリス人達とも現地で再会し、旧交を温めることができました。

私にとっては、「毎日歯を磨くように英語をやれる」ことが自分の望みでもあり、自分を磨くために必要な環境であったと思うのです。この留学をきっかけに私の人生が大きく変わったことは間違いありません。

目標の実現を目指して挑戦を続ける

帰国後の異動先は、国際教養科を冠する英語教育の最先端を走る高校でした。文部科学省からスーパーイングリッシュハイスクール(SELHi)に指定されており、私はいきなりSELHi研究学年の2学年国際教養科の担任に任命され、それこそ「超」が付くほど多忙な日々が始まりました。

しかし、忙しい中でも、刺激的な同僚の先生方や5人のネイティヴ講師(NTE)に囲まれて、英語を学びたいという意欲のある生徒たちと一緒に学べる環境は私にとって最高でした。姉妹校からの短期留学の受け入れや語学研修引率などを筆頭に国際交流も盛んで、他の高校では味わえない充実感と挑戦の意識を奮い立たせられる職場でしたね。

そのころから4技能統合型の授業を目指してSELHi研究は進み、研究終了後も様々な取り組みを行い、プロジェクト・リーダーを任されたこともありました。その時に大学の先生を委員会のリーダーとしてお迎えする機会があり、迷わず恩師のダイアン・ナガトモ先生に声を掛けました。ダイアン先生は快く運営指導委員を引き受けてくださり、3年間にわたって貴重なご助言をいただくことができました。

私は周りにいる人に恵まれていたのだと思います。特に一緒に働く同僚の先生方やNTEとは、授業準備を通じて議論し、アイディアを出し合い、効果的な授業を一緒に追求することで、多くのことを学びました。

私が挑戦してきたことは、4技能統合型の授業を進めることが、受験対策だけでなく、英語のスキルを確実に身に付けることで、結果として生徒一人一人が希望する進路を実現させることにつなげることです。そして、それは成し遂げられたと信じています。

進路実績で結果が出たことはもちろんですが、大学生となった卒業生が、口々に大学の英語の授業より高校の授業の方がレベル高かったとか、高校の授業で習った通りにプレゼンテーションしたら大学で満点をもらったという話をしてくれた時に、挑戦してよかった、教員をやっていてよかったと実感したことはいうまでもありません。

この頃から、いろいろな場所で講演する機会を頂くようになり、目標を持って様々な実践例を積み重ねたことを先生方とシェアするようになりました。神田外語学院の長谷川貢先生にお声がけいただいて、英語教育公開講座で2回ほど講義させていただきました。講演をすることで、自分のやっていることをまとめる良い機会になりました。

また、千葉県教育委員会から2年間の教科研究員に任命されたり、つくばの教員研修センターでの中央研修の機会を頂いたりしたことが、貴重な研究の機会となったと同時に、同じ方向を向く先生方と出逢うことができたことに感謝しています。

学校現場を離れて、新たな道へ

10年という長い間お世話になった学校を去り、千葉県総合教育センターに異動したときほど、喪失感に襲われたことはありません。25年間、生徒の存在に支えられていたことを痛感しました。

身分は研究指導主事という事務職となり、全く新しい仕事を任されました。とにかく分からないことだらけで途方に暮れながら、隣の先輩指導主事に、仕事をひとつひとつ教えてもらいました。誰かがやらなければならない仕事だということは理解できたものの、当時はかなりストレスが溜まっていたように思います。

しかし、そこでも夏休みに行われる教員対象の研修講座の講師を担当する機会をいただき、先生方を生徒として教える経験を通じて、「英語を」教えるのではなく「英語を使用して」教えるという世界を知り、英語教育の奥深さをも経験したのです。これが楽しいと思えたのは、生徒ロスから来たのか、私の進むべき新しい道を示していたのかは、まだ謎です。

2019年に、British Councilからお声がけいただき、New Directionsという国際会議で講師を務めさせていただいたのは、身に余るような経験でした。

最後に

本当に長くなりましたが、令和4年度現在、千葉市教育委員会学校教育部教育改革推進課というところに籍を置いています。生徒を教える最前線からは離れてしまいましたが、教育委員会での仕事も、これまでの経験を総動員しても足りないほど、やりがいがあります。

ちょうど神田外語大学同窓会では新たにTeachers’ Networkが立ち上がると聞いています。一期生として、後輩の先生方のお役に立てるように、微力ながら参加させていただくつもりです。「困難は分割せよ」千葉市教育委員会に貼ってある言葉です。困難があっても、話をしてシェアすることで、乗り越えられるものになると信じています。Teachers’ Networkがそのような場になるといいですね。

どの仕事も同じだと思いますが、教師という仕事は一生かかってもゴールにたどり着くことはないのだろうなと思います。ならば、歩ける間は前を向いて歩いてゆくのみです。道が続く限り。The road goes ever on♪

Thank you for reading!
Cheers,

1991年卒業
外国語学部英米語学科
藤井 大

現 千葉市教育委員会学校教育部教育改革推進課 指導主事
千葉県千葉商業高等学校 教頭
千葉県総合教育センター学力調査部 研究指導主事
千葉県立高等学校及び千葉市立高等学校で25年間教諭(英語)

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