異文化理解教育の先駆者たち

第1回 西山和夫ハワイ大学名誉教授『正しい日本を伝えるために』

エリート社員から雑用係へと転落
でも、勉強したい一心でバイトを続けた

パンナムに入って、最初は貨物課に配属されましたが、英会話がよくできたので旅客課に移してもらいました。私はパンナムで日本人初のマネジャーになろうと決意した。でも、そのためには完全なバイリンガルにならなくちゃいけない。それで昭和35(1960)年、9カ月間の無給休暇を取って、ハワイ大学のマノア校に留学しました。27歳のときです。2学期間だけの予定でした。専攻はスピーチ・コミュニケーションです。

最初の学期で成績がとてもよかったんです。すると、留学生相談室のスミエ・マケイヴ先生が「カズオ、学生課で奨学金を取りなさい」と助言してくださいました。次の学期からは奨学金をもらいました。ワイキキのホテルでハウスボーイのアルバイトもしましたね。トイレが詰まれば真空ポンプで直して、プールサイドの汚れたタオルを片付ける。1時間1ドル52セント。パンナムのエリート社員から雑用係に転落です。でも、勉強したい一心でバイトを続けました。

ハワイ大学に入学した直後、マケイヴ先生の部屋を訪れると先客がいて、何やら相談をしていました。彼女は中国系ハワイ人で「ハワイ教育者大会でスピーチをしてくれる日本人留学生を探している」という。すると先生は「適任者がいます。カズオです」と言って、その場で話が決まった。それからはスピーチ原稿の作成です。マケイヴ先生に「あなたは英語会話は上手だが、文法はとんでもない」と言われながら、何度も書き直しました。当日は副知事をはじめ1000人ぐらいの前で話しましたが、スピーチがうまくいって、自分の存在がハワイの教育界で知られるようになり、たくさんの友人に出会うことができたのです。

結局、パンナムを辞めて、そのまま大学に残りました。学びながら、ワイキキにある日系人が経営する旅行会社でもマネジャーの職を得ました。ハワイから日本に観光団を連れていく旅行会社です。卒業後も、その会社で仕事を続けました。結婚もして、子どもも生まれた。でも、給料を上げてくれる様子は一向にない。そんなとき、マケイヴ先生のお友達で、本願寺ミッションスクールの校長を務めていた田中先生に、「西山さん、こんな仕事をしていたらもったいない。大学に戻って勉強して、高校の先生になって、日本語と日本文化を教えなさい」と言っていただきました。それで大学院に入ることにしたのです。(2/8)

学校法人佐野学園:理事長室・いしずゑ会
〒101-8525 東京都千代田区内神田2-13-13
TEL: 03-5289-8828

法人本部広報部 渡邉公代
TEL:03-3258-5837

写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

本ページの記事・写真等及びコンテンツの著作権は、
神田外語いしずゑ会、写真家または情報提供者それぞれに帰属しています。

閉じる